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豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?(最終回) [豊臣秀吉]

現地の薩摩に、秀頼の目撃談や証言がたくさん残っています。たとえば、『異本薩摩風土記全』は、

「大坂の人々(大坂城脱出組の落人)この辺に住、浪人姿にて世を送るとひへる」

という伝承を掲載しています。

具体的に、“この辺”というのは薩摩の谷山村(現鹿児島市)のことだとまで書いてあり、その落人集団の「たいてう」(隊長)が秀頼だったというのです。

また、同じ史料に、谷山の町はずれに「木下角」(木下は秀吉の旧姓)という地名が残り、その在所の赤松の下に五輪の塔(墓石)があって、その両面に衣冠束帯(高貴な人の装束)の像が刻まれていたと書かれています。

『異本薩摩風土記全』によると、彼はまた、かなりの暴れん坊だったようです。

「秀頼たいてう(隊長)中町をあはれあるく(暴れ歩く)とゆふ。殿(薩摩藩主)より仰渡(おおせわた)されハ此御人に一切無礼のなきよふにとの御触にて(後略)」

 殿様から、秀頼に「無礼のなきよう」との触れが出されていたから、人々は「なまよい(生酔い)」の秀頼を見かけるや、逃げ出したといいます。さらに秀頼は道行く人々にいつも無心(借金)するから、困り果てたとも記されています。

大坂城脱出後、こうして天下への志を捨てた秀頼は、“薩摩の鼻つまみ者”になった可能性があります。また、『翁草』によると、「九十歳計(ばかり)に薨じ給ぬ」とあり、案外、秀頼は薩摩で安穏と長寿を全うしたのではないでしょうか。

さて、その”薩摩の秀頼”は、「背高くして色白」と伝承されています。より具体的に、背丈が6尺以上だったとする史料まであるのです。

6尺はおよそ180センチですから、”薩摩の秀頼”の身長は190センチ程度と推測されます。戦国時代の男子の平均身長は160センチ足らずですから、ケタはずれの大男です。現代の平均身長を考えて現代人に喩えると、ゆうに200センチは超えていたことになります。

一方、父親とされる秀吉は戦国時代の平均を下回る身長だったと推察されます。もちろん秀頼が母・淀殿の血を引いている可能性はなくはありません。しかし、遺伝的にみて秀頼が秀吉の実子だったかかどうかは極めて疑わしいのではないでしょうか。

もちろんそれは、“薩摩の秀頼”があの秀頼だとしての話ですが、わたしたちが知っている秀頼も6尺5寸(197センチ)だという記録があり、そんな大男が同時代にそう何人もいたとは思えません。しかも、薩摩と大坂の大男は2人とも、秀頼という名でした。偶然とは考えられません。

だとすると、薩摩の伝承は、秀頼が秀吉の実子でなかった可能性を示唆すると共に、秀頼が薩摩でひっそり長寿を全うしたことを物語っているような気がしてならないのです。

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豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?⑤ [豊臣秀吉]

『真田三代記』によりますと、大坂落城後、真田幸村が秀頼をともなって薩摩へ渡った翌年、秀頼に看取られ、この世を去る展開となります。

『真田三代記』は江戸時代の小説というべきものですから、以上の話を史実とするわけにはいきません。しかし、秀頼が幸村と共に薩摩へ逃げ落ちたという話は、江戸時代の半ば以降も、多くの人の口の端にのぼっています。

たとえば、江戸時代の作家・上田秋成が女中から聞いた話として、秀頼と幸村は、薩摩が城内に送り込んだ歩卒に変装して脱出したと書き残しています。ちなみに、その女中の母は、18歳のころ大坂方の重臣木村重成に仕えていたといいますから、無視はできません。

また、松浦静山という大名がその著『甲子夜話』に、

「秀頼ハ潜(ひそか)ニ薩摩ニ行レタリ」

と記し、『翁草』という史料も「秀頼の事、異説すこぶる多くして、事実分明ならず」としつつ、「薩州へ退(の)き給ふ」という「世説」が根強かった事実を載せています。

これだけの証言があるのだから、秀頼が正史どおり、大坂夏の陣で死んだとみるほうが不自然だといえます。幕府も、匿まう相手が西国雄藩の薩摩だけに、事を荒立てるわけにはいかなかったのでしょう。

以上、だいぶ横道にそれてしまいましたが、秀頼の生存説について、くどくどと書いてきたのは、秀頼が秀吉の実子でなかったことを立証するような史料が薩摩に残されていたからです。(つづく)


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豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?④ [豊臣秀吉]

肥前にいた秀吉は、秀頼誕生を伝えてくれた相手へ、

「わたしにとって子は亡くなった鶴松だけ。こんど生まれた子は淀の子である」

というニュアンスの返書をしたためていますが、その返書の相手は秀吉の正妻ねね。子どもを生んだことのない妻への遠慮があるとはいえ、疑惑が残る文面といえます。

秀頼が秀吉の実子か否か――もはや、それは淀殿自身のみが知る事実といえそうですが、もう一つ、疑うべき根拠があります。

その前に、少し横道へそれますが、大坂夏の陣で大坂城が落城したシーンへ時計の針を進めてみましょう。

慶長20年(1615)5月7日の深夜、天守閣が炎上して大坂城は落城。秀頼は、炎の中で母(淀殿)と共に自刃し、この瞬間、豊臣家は滅亡した――ことになっています。

ところが、当時、平戸に駐留していたイギリス商館長リチャード・コックスの日記には、

「秀頼様の遺骸は大坂城内から発見されなかった」
「大御所様(徳川家康)は日本全国に命を発し、大坂焼亡の際に城を脱出した輩を捜索させている」

とあり、さらに京の友人から聞いた話として、

「秀頼様は重臣五、六名と共に生存し、薩摩にいるという風聞がある」

と付け加えています。ここから江戸時代すでに、秀頼が薩摩へ落ちのびたとする説が囁かれていたことがわかります。

ただ、秀頼が生存していたとしたら、まず、徳川方に包囲される大坂城から脱出しなければなりません。江戸時代に書かれた『真田三代記』に、その情景が克明に描かれています。

『真田三代記』によると、落城寸前の城内でのこと。大将格の真田幸村が総大将秀頼の前に伺候するや、涙を浮かべ、「君(秀頼)を一度薩摩へ落し参らせて御開運を待つべし」と進言します。

やがて、幸村父子とその臣下150名らが秀頼を奉じ、「城中の抜穴」を通って、徳川方の包囲が手薄な京橋口のあたりまで脱出すると、大坂方としめし合わせていた薩摩藩の家臣・伊集院刑部が、小船を仕立てて待ちかまえていました。そして主従は、兵庫湊で大船に乗り換え、海路、薩摩へ落ち延びたというのですが…。
(つづく)


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豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?③ [豊臣秀吉]

毛利輝元の家臣が慶長4年(1599)12月2日付で国元へ送った手紙に、淀殿が大野修理亮治長と密通したことが露見したと書かれています。

慶長4年というのは秀吉が死んだ翌年。このとき密通していたとしても、秀頼はすでに生まれたあとだから、この密通事件と秀頼の出生とは無関係ということになります。しかし、逆にいうと2人の関係は、秀吉の生前から続いていたという裏付けにもなるのです。

秀吉が逝去し、こそこそと隠れて密会する必要がなくなったから関係が露呈したといえなくもありません。

この当時の“政界”を揺るがす不倫疑惑は、よほど大きな噂になっていたらしく、およそ200年後の江戸時代中期になっても、まだ燻ぶり続けます。

一方の秀吉は、淀殿と秀頼についてどう思っていたのでしょうか。

秀頼(幼名お拾)が生まれたとき、秀吉は朝鮮出兵の本営である肥前名護屋にいましたが、大坂城まで飛んで帰っています。淀殿との間の第1子(鶴松)を亡くしたばかりの秀吉は、よほど嬉しかったのでしょう。

ただし、そんな秀吉も、秀頼誕生の一報を聞いたとき、“本当に俺の子か?”と疑った節があります。肥前にいた秀吉は、秀頼誕生を伝えてくれた相手への返書の末尾にこう記しるしています。

「太閤(秀吉のこと)子は鶴松にて候つるが、よそへ越し候まゝ、二の丸殿(淀殿のこと)ばかりの子にてよく候はんや」(『高台寺文書』)

つまり、「わたしにとって子は亡くなった鶴松だけ。こんど生まれた子は淀の子である」といっているのです。(つづく)

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豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?② [豊臣秀吉]

秀吉に子ダネがなかったわけではありません。

長浜城主時代に、秀吉が正室ねねの侍女に手を出し、長男(石松丸)をもうけているのは歴史的事実。ただし、この長男は夭折しています。

それを考えると、秀吉とねね夫妻に子どもがなかったのは、ねねの方に問題があり、それゆえ、ねねが嫉妬のため石松丸を毒殺したという説まであります。

そうすると、『異説まちまち』の”ゴシップ記事”(「豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?①」参照)について、ねねが夫の実子を宿した淀殿への嫉妬から、あらぬ噂(秀頼は不義の子)をバラ撒いたと、考えることもできるわけです。

しかし、真相はそう単純ではなさそうです。伊達家の記録を参考にすると、少なくとも秀吉には16人の側室がいました。ところが、淀殿をおいてほかの側室に子どもが生まれたという記録はありません。子ダネがなかったとはいえないまでも、秀吉も、やはり子どもを作りにくい体質だったような気がします。

するとこんどは、淀殿が問題になります。ほかの秀吉の側室に子どもがなかったのに、淀殿にだけ立て続けに2人(1人目の鶴松も、やはり夭折)も子どもが生まれているのです。とても偶然とは考えられません。

やはり、淀殿は秀吉とは別の男と密通し、秀頼はその男との間の不義の子だったのでしょうか。

そういう前提で史料を読み直してみると、毛利輝元の家臣が慶長4年(1599)12月2日付で国元へ送った手紙に、ある重要なことが書かれていたのです……。(つづく)

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豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?① [豊臣秀吉]

病床の豊臣秀吉は、徳川家康や毛利輝元らを枕元に招き、「秀頼のこと、成り立つようによろしくお願い申す。それ以外に思い残すことは何もござらん」と遺言し、まだ5歳の秀頼を残してこの世を去ります。

権力者とはいえ、人の親。幼い子どもを残し、さぞや無念だったと思います。しかし、ここで大きな疑問が持ちあがります。本当に秀頼は秀吉の実子だったのでしょうか?

じつは、江戸時代からこうした疑問は生まれていました。いや、むしろ、現代の週刊誌顔負けの“ゴシップ・ネタ”が飛び交っていたといえるでしょう。

たとえば『異説まちまち』という江戸時代の”ゴシップ誌”にはこうあります。

「太閤の奥方いはれしは、太閤なかなか子など出来る生れにてはなし。秀頼は大野修理(治長)が子なりと云われしと也」

大野治長は秀吉の馬廻り(親衛隊)出身で、秀頼の生母・茶々の乳母(大蔵卿の局)の子。のちに豊臣家の家老格となる武将です。淀殿(茶々)と治長は幼なじみですから、2人がそういう関係になったとしてもおかしくはありません。

これが事実なら、いまでいう大スクープ。淀殿と治長が結託し、自分たちの子を余生短い秀吉の子だと偽って、天下を簒奪しようとしたとも読み取れます。

この『異説まちまち』の記述によりますと、この”世紀の大スキャンダル”のネタ元は「太閤の奥方」になります。ふつう奥方といえば正室のことを指しますから、この場合は、秀吉の糟糠の妻ねね(北政所)のこと。

つまり秀吉の正室が“太閤は子どもの出来る体ではない(子ダネがない)から、秀頼は治長の子に決まっているじゃないの”と、誰かに話した内容を、後世になって『異説まちまち』の筆者が拾い上げ、記事にしたとも考えられます。

しかし、本当に秀吉には子ダネがなかったのでしょうか?(つづく)

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中国大返しはなぜ可能だったか?(最終回) [豊臣秀吉]

秀吉は、自分より早く他の武将に光秀を討たれることを警戒していました。そのため秀吉は、次のような書状を摂津茨木城主中川清秀に送っています。

「これから書状を出そうと思っている時に貴報を受けて嬉しく思う。ただいま京都より下った使者の確かな報告によると、信長様・信忠様はいずれも、なんのお障りもなく難を切り抜けられ、膳所ヶ崎(滋賀県大津市)へ退かれた」

もちろん、このとき秀吉は正確な情報を入手しています。つまり、以上の話は大嘘。故意に“ニセ情報”を流したのです。

摂津には高槻城主高山重友・伊丹城主池田恒興らも割拠しています。彼ら摂津衆に秀吉より早く光秀追討の軍を挙げられるわけにはいかなかったのです。

とくに彼ら摂津衆が、そのころ大軍を率いて大坂城に入城していた丹羽長秀と合流したら、厄介なことになります。

長秀は織田家四武将の一人で、このとき信長三男・信孝の補佐役として四国の長宗我部元親討伐の指揮を命じられていました。

六月二日未明に信長が本能寺で非業の死を遂げたとき、長秀は住吉の浦(大阪市)でまさに渡海準備を進めていたのです。もしも長秀がこの千載一遇のチャンスを逃さず、周辺の摂津衆らを糾合して光秀に天下分け目の戦いを挑んでいたら、秀吉の出番はなくなっていたでしょう。

光秀もこの長秀軍を最も警戒し、洞ヶ峠(山城・河内の国境の峠)で娘婿の筒井順慶と合流して摂津方面へ攻め上る予定でした。ところが、長秀は住吉から大坂城へ軍を引き上げ、動こうとはしませんでした。

秀吉の“ニセ情報作戦”は成功したといえます。

奇跡といえる中国大返し成功は、秀吉の情報戦略の巧みさにあったといえるでしょう。

(この連休中、所要のためブログの更新をお休みします。20日の火曜日、新しいテーマをアップさせていただきます)

中国大返しはなぜ可能だったか?⑦ [豊臣秀吉]

6月6日の午後2時ごろ、秀吉は毛利方の備中高松城(岡山市)を包囲していた全軍に陣払いを命じ、味方になっている宇喜多方の備前沼城(同)へと入ります。

しかし、それは背後の毛利勢を窺いながらの撤退でしたから、ゆっくりしたスピードで進んでいます。

そして翌7日、もう大丈夫だと判断したのでしょう。秀吉軍は悪天候のなか、暴れる河川をものともせず、沼城から居城の姫路城まで――つまり岡山・姫路間を、たった1日で駆け抜けます。これが史上有名な“中国大返し”です。

この時代、1日40キロが平均といわれる行軍スピードですが、秀吉軍は時速およそ5キロという猛スピードで山陽道(西国道)を駈け抜けたことになります。

そのとき従軍していた将兵のコメントが残っています。信憑性が疑われている史料ですが、大変な行軍だったという雰囲気がよく伝わる話なので以下に引用します。

「それがしは馬乗に候。さりながら尻は破れ(中略)手足痺れ、おぼつかなく候なり」(『武功夜話』)

11日、さらに秀吉軍は摂津の尼崎まで進み、そこで秀吉は”にわか坊主”となります。全軍に弔い合戦のムードを高めるための演出でした(『老人雑話』)。そして、その2日後には光秀を山崎(京都府)で打破っています。まさに疾風怒濤というに相応しい秀吉軍の迅速さでした。

しかし、中国大返しのさなか、秀吉にはひとつ、何としても解決しておかなければならない課題があったのです…。(つづく)

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中国大返しはなぜ可能だったか?⑥ [豊臣秀吉]

6月4日の午後5時ごろ、毛利輝元の陣営に上方からの使者が参着し、本能寺で信長が憤死した情報を伝えます。

すでに秀吉との講和は成立したあとでしたが、このとき毛利の陣営で吉川元春(毛利元就の次男)が「誓紙は破りても苦しからず。だまかされ候儀にて」(『川角太閤記』)と、秀吉にたぶらかされたことを憤り、講和をやぶって羽柴勢を討つべきだと主張しました。

しかし、弟の小早川隆景が誓紙をやぶって世の信頼を失うことは毛利のためにならないといって説き伏せたとされています(『同』)。

前述(「中国大返しはなぜ可能だったか?④」参照)のとおり、毛利は10日ごろになっても本能寺の変について正確な情報を掴んでいない状態が続きますが、信長と嫡男信忠が討ち取られたという核心部分については、この4日の時点で入手していたと思います。

毛利陣営で前記のような毛利兄弟の激論が実際に交わされていたかどうかは推測の域を出ませんが、秀吉にしたら、毛利にいつ本能寺の情報が入るかどうかわからない状況下で、敵に後ろを見せて陣払いをおこなうのは危険でした。

なにしろ、高松城の西20㌔の地点には毛利の総大将輝元が大軍を率いて後詰めしているのです。講和の成立によって彼らが本当に撤退するかどうか、毛利の出方を窺う必要がありました。

また、高松には長期に及び在陣しています。陣払いといっても、兵だけが動けばすむ話ではなく、かきあつめた兵糧をどうするかという問題もあります。たとえば兵糧を荷駄に積むにしても、その準備には相当な時間がかかります。兵糧をほったらかしにし、慌てて撤退すれば、毛利方に怪しまれてしまいます。

以上が”2日間の空白”が生まれた理由だと考えられます。

6日の午後になり、秀吉は、ようやく相手が動く気配をみせないことを確認したものの、それでも毛利軍を警戒して、まずは味方になった宇喜多方の沼城(岡山市)へ、そろそろと軍を動かすのです。
(つづく)

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中国大返しはなぜ可能だったか?⑤ [豊臣秀吉]

秀吉は6月4日の早朝、すでに本能寺の変の情報を掴んでいました。そこで秀吉は講和交渉中だった毛利に対して領土面で大幅な譲歩を示し、毛利方も渋っていた高松城主・清水宗治の切腹を承諾します。

宗治が切腹したのは4日の午前9時ごろでした。しかし、秀吉はすぐさま陣払いしたわけではありません。

『浅野家文書』には「六日まで逗留致し」とあり、秀吉軍の陣払いは6日になってからだということがわかります。それでは丸2日間、秀吉は高松で何をしていたのでしょうか。

秀吉の手で主君信長の仇を報じるためには時間との勝負になります。へたをすると、大坂にいた丹羽長秀はじめ、織田家諸将に先を越されてしまうからです。しかし、その2日間の秀吉の行動の詳細は明らかになっていません。”2日間の空白”ともいえる秀吉のこの行動は謎といえます。

そこで、4日の宗治切腹後の時点にまで立ち戻り、その日の状況を確認しておきましょう。

そのころ、毛利方にもようやく本能寺の変に関する一報が入ります。もちろん、誤報だらけの情報でしたが、本能寺で信長が討ち取られたという一事だけは正確でした。

まず『毛利家記』によると、光秀のところにいた毛利家ゆかりの者が飛脚を飛ばしたものの、「海上風烈しくして摂州御影(神戸市東灘区)より歩行して延引す」と記されています。この飛脚の到着は遅れましたが、毛利家が上方に置いた使者からの注進が4日の午後5時ごろ、輝元の陣営に届けられます(『川角太閤記』)。

すでに秀吉との講和は成立したあとでしたが、「信長死ス!」の急報に接し、このとき毛利の陣営で激論が交わされるのです…。(つづく)

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