豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?⑤ [豊臣秀吉]

『真田三代記』によりますと、大坂落城後、真田幸村が秀頼をともなって薩摩へ渡った翌年、秀頼に看取られ、この世を去る展開となります。

『真田三代記』は江戸時代の小説というべきものですから、以上の話を史実とするわけにはいきません。しかし、秀頼が幸村と共に薩摩へ逃げ落ちたという話は、江戸時代の半ば以降も、多くの人の口の端にのぼっています。

たとえば、江戸時代の作家・上田秋成が女中から聞いた話として、秀頼と幸村は、薩摩が城内に送り込んだ歩卒に変装して脱出したと書き残しています。ちなみに、その女中の母は、18歳のころ大坂方の重臣木村重成に仕えていたといいますから、無視はできません。

また、松浦静山という大名がその著『甲子夜話』に、

「秀頼ハ潜(ひそか)ニ薩摩ニ行レタリ」

と記し、『翁草』という史料も「秀頼の事、異説すこぶる多くして、事実分明ならず」としつつ、「薩州へ退(の)き給ふ」という「世説」が根強かった事実を載せています。

これだけの証言があるのだから、秀頼が正史どおり、大坂夏の陣で死んだとみるほうが不自然だといえます。幕府も、匿まう相手が西国雄藩の薩摩だけに、事を荒立てるわけにはいかなかったのでしょう。

以上、だいぶ横道にそれてしまいましたが、秀頼の生存説について、くどくどと書いてきたのは、秀頼が秀吉の実子でなかったことを立証するような史料が薩摩に残されていたからです。(つづく)


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