豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?④ [豊臣秀吉]

肥前にいた秀吉は、秀頼誕生を伝えてくれた相手へ、

「わたしにとって子は亡くなった鶴松だけ。こんど生まれた子は淀の子である」

というニュアンスの返書をしたためていますが、その返書の相手は秀吉の正妻ねね。子どもを生んだことのない妻への遠慮があるとはいえ、疑惑が残る文面といえます。

秀頼が秀吉の実子か否か――もはや、それは淀殿自身のみが知る事実といえそうですが、もう一つ、疑うべき根拠があります。

その前に、少し横道へそれますが、大坂夏の陣で大坂城が落城したシーンへ時計の針を進めてみましょう。

慶長20年(1615)5月7日の深夜、天守閣が炎上して大坂城は落城。秀頼は、炎の中で母(淀殿)と共に自刃し、この瞬間、豊臣家は滅亡した――ことになっています。

ところが、当時、平戸に駐留していたイギリス商館長リチャード・コックスの日記には、

「秀頼様の遺骸は大坂城内から発見されなかった」
「大御所様(徳川家康)は日本全国に命を発し、大坂焼亡の際に城を脱出した輩を捜索させている」

とあり、さらに京の友人から聞いた話として、

「秀頼様は重臣五、六名と共に生存し、薩摩にいるという風聞がある」

と付け加えています。ここから江戸時代すでに、秀頼が薩摩へ落ちのびたとする説が囁かれていたことがわかります。

ただ、秀頼が生存していたとしたら、まず、徳川方に包囲される大坂城から脱出しなければなりません。江戸時代に書かれた『真田三代記』に、その情景が克明に描かれています。

『真田三代記』によると、落城寸前の城内でのこと。大将格の真田幸村が総大将秀頼の前に伺候するや、涙を浮かべ、「君(秀頼)を一度薩摩へ落し参らせて御開運を待つべし」と進言します。

やがて、幸村父子とその臣下150名らが秀頼を奉じ、「城中の抜穴」を通って、徳川方の包囲が手薄な京橋口のあたりまで脱出すると、大坂方としめし合わせていた薩摩藩の家臣・伊集院刑部が、小船を仕立てて待ちかまえていました。そして主従は、兵庫湊で大船に乗り換え、海路、薩摩へ落ち延びたというのですが…。
(つづく)


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何のために薩摩が真田をかばわないといけないの?。
宇喜多の件もあるのに、これ以上危険はおこすと思えない。
真田三代記は歴史文書でなく小説にすぎない。
by お名前(必須) (2016-05-23 17:05) 

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