豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?③ [豊臣秀吉]

毛利輝元の家臣が慶長4年(1599)12月2日付で国元へ送った手紙に、淀殿が大野修理亮治長と密通したことが露見したと書かれています。

慶長4年というのは秀吉が死んだ翌年。このとき密通していたとしても、秀頼はすでに生まれたあとだから、この密通事件と秀頼の出生とは無関係ということになります。しかし、逆にいうと2人の関係は、秀吉の生前から続いていたという裏付けにもなるのです。

秀吉が逝去し、こそこそと隠れて密会する必要がなくなったから関係が露呈したといえなくもありません。

この当時の“政界”を揺るがす不倫疑惑は、よほど大きな噂になっていたらしく、およそ200年後の江戸時代中期になっても、まだ燻ぶり続けます。

一方の秀吉は、淀殿と秀頼についてどう思っていたのでしょうか。

秀頼(幼名お拾)が生まれたとき、秀吉は朝鮮出兵の本営である肥前名護屋にいましたが、大坂城まで飛んで帰っています。淀殿との間の第1子(鶴松)を亡くしたばかりの秀吉は、よほど嬉しかったのでしょう。

ただし、そんな秀吉も、秀頼誕生の一報を聞いたとき、“本当に俺の子か?”と疑った節があります。肥前にいた秀吉は、秀頼誕生を伝えてくれた相手への返書の末尾にこう記しるしています。

「太閤(秀吉のこと)子は鶴松にて候つるが、よそへ越し候まゝ、二の丸殿(淀殿のこと)ばかりの子にてよく候はんや」(『高台寺文書』)

つまり、「わたしにとって子は亡くなった鶴松だけ。こんど生まれた子は淀の子である」といっているのです。(つづく)

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