豊臣秀頼は本当に秀吉の子か?① [豊臣秀吉]
病床の豊臣秀吉は、徳川家康や毛利輝元らを枕元に招き、「秀頼のこと、成り立つようによろしくお願い申す。それ以外に思い残すことは何もござらん」と遺言し、まだ5歳の秀頼を残してこの世を去ります。
権力者とはいえ、人の親。幼い子どもを残し、さぞや無念だったと思います。しかし、ここで大きな疑問が持ちあがります。本当に秀頼は秀吉の実子だったのでしょうか?
じつは、江戸時代からこうした疑問は生まれていました。いや、むしろ、現代の週刊誌顔負けの“ゴシップ・ネタ”が飛び交っていたといえるでしょう。
たとえば『異説まちまち』という江戸時代の”ゴシップ誌”にはこうあります。
「太閤の奥方いはれしは、太閤なかなか子など出来る生れにてはなし。秀頼は大野修理(治長)が子なりと云われしと也」
大野治長は秀吉の馬廻り(親衛隊)出身で、秀頼の生母・茶々の乳母(大蔵卿の局)の子。のちに豊臣家の家老格となる武将です。淀殿(茶々)と治長は幼なじみですから、2人がそういう関係になったとしてもおかしくはありません。
これが事実なら、いまでいう大スクープ。淀殿と治長が結託し、自分たちの子を余生短い秀吉の子だと偽って、天下を簒奪しようとしたとも読み取れます。
この『異説まちまち』の記述によりますと、この”世紀の大スキャンダル”のネタ元は「太閤の奥方」になります。ふつう奥方といえば正室のことを指しますから、この場合は、秀吉の糟糠の妻ねね(北政所)のこと。
つまり秀吉の正室が“太閤は子どもの出来る体ではない(子ダネがない)から、秀頼は治長の子に決まっているじゃないの”と、誰かに話した内容を、後世になって『異説まちまち』の筆者が拾い上げ、記事にしたとも考えられます。
しかし、本当に秀吉には子ダネがなかったのでしょうか?(つづく)
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毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。
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大野治長は秀吉の馬廻り(親衛隊)出身で、秀頼の生母・茶々の乳母(大蔵卿の局)の子。のちに豊臣家の家老格となる武将です。淀殿(茶々)と治長は幼なじみですから、2人がそういう関係になったとしてもおかしくはありません。
これが事実なら、いまでいう大スクープ。淀殿と治長が結託し、自分たちの子を余生短い秀吉の子だと偽って、天下を簒奪しようとしたとも読み取れます。
この『異説まちまち』の記述によりますと、この”世紀の大スキャンダル”のネタ元は「太閤の奥方」になります。ふつう奥方といえば正室のことを指しますから、この場合は、秀吉の糟糠の妻ねね(北政所)のこと。
つまり秀吉の正室が“太閤は子どもの出来る体ではない(子ダネがない)から、秀頼は治長の子に決まっているじゃないの”と、誰かに話した内容を、後世になって『異説まちまち』の筆者が拾い上げ、記事にしたとも考えられます。
しかし、本当に秀吉には子ダネがなかったのでしょうか?(つづく)
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2011-09-20 11:11
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