中国大返しはなぜ可能だったか?(最終回) [豊臣秀吉]

秀吉は、自分より早く他の武将に光秀を討たれることを警戒していました。そのため秀吉は、次のような書状を摂津茨木城主中川清秀に送っています。

「これから書状を出そうと思っている時に貴報を受けて嬉しく思う。ただいま京都より下った使者の確かな報告によると、信長様・信忠様はいずれも、なんのお障りもなく難を切り抜けられ、膳所ヶ崎(滋賀県大津市)へ退かれた」

もちろん、このとき秀吉は正確な情報を入手しています。つまり、以上の話は大嘘。故意に“ニセ情報”を流したのです。

摂津には高槻城主高山重友・伊丹城主池田恒興らも割拠しています。彼ら摂津衆に秀吉より早く光秀追討の軍を挙げられるわけにはいかなかったのです。

とくに彼ら摂津衆が、そのころ大軍を率いて大坂城に入城していた丹羽長秀と合流したら、厄介なことになります。

長秀は織田家四武将の一人で、このとき信長三男・信孝の補佐役として四国の長宗我部元親討伐の指揮を命じられていました。

六月二日未明に信長が本能寺で非業の死を遂げたとき、長秀は住吉の浦(大阪市)でまさに渡海準備を進めていたのです。もしも長秀がこの千載一遇のチャンスを逃さず、周辺の摂津衆らを糾合して光秀に天下分け目の戦いを挑んでいたら、秀吉の出番はなくなっていたでしょう。

光秀もこの長秀軍を最も警戒し、洞ヶ峠(山城・河内の国境の峠)で娘婿の筒井順慶と合流して摂津方面へ攻め上る予定でした。ところが、長秀は住吉から大坂城へ軍を引き上げ、動こうとはしませんでした。

秀吉の“ニセ情報作戦”は成功したといえます。

奇跡といえる中国大返し成功は、秀吉の情報戦略の巧みさにあったといえるでしょう。

(この連休中、所要のためブログの更新をお休みします。20日の火曜日、新しいテーマをアップさせていただきます)

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