中国大返しはなぜ可能だったか?⑦ [豊臣秀吉]

6月6日の午後2時ごろ、秀吉は毛利方の備中高松城(岡山市)を包囲していた全軍に陣払いを命じ、味方になっている宇喜多方の備前沼城(同)へと入ります。

しかし、それは背後の毛利勢を窺いながらの撤退でしたから、ゆっくりしたスピードで進んでいます。

そして翌7日、もう大丈夫だと判断したのでしょう。秀吉軍は悪天候のなか、暴れる河川をものともせず、沼城から居城の姫路城まで――つまり岡山・姫路間を、たった1日で駆け抜けます。これが史上有名な“中国大返し”です。

この時代、1日40キロが平均といわれる行軍スピードですが、秀吉軍は時速およそ5キロという猛スピードで山陽道(西国道)を駈け抜けたことになります。

そのとき従軍していた将兵のコメントが残っています。信憑性が疑われている史料ですが、大変な行軍だったという雰囲気がよく伝わる話なので以下に引用します。

「それがしは馬乗に候。さりながら尻は破れ(中略)手足痺れ、おぼつかなく候なり」(『武功夜話』)

11日、さらに秀吉軍は摂津の尼崎まで進み、そこで秀吉は”にわか坊主”となります。全軍に弔い合戦のムードを高めるための演出でした(『老人雑話』)。そして、その2日後には光秀を山崎(京都府)で打破っています。まさに疾風怒濤というに相応しい秀吉軍の迅速さでした。

しかし、中国大返しのさなか、秀吉にはひとつ、何としても解決しておかなければならない課題があったのです…。(つづく)

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