中国大返しはなぜ可能だったか?⑥ [豊臣秀吉]

6月4日の午後5時ごろ、毛利輝元の陣営に上方からの使者が参着し、本能寺で信長が憤死した情報を伝えます。

すでに秀吉との講和は成立したあとでしたが、このとき毛利の陣営で吉川元春(毛利元就の次男)が「誓紙は破りても苦しからず。だまかされ候儀にて」(『川角太閤記』)と、秀吉にたぶらかされたことを憤り、講和をやぶって羽柴勢を討つべきだと主張しました。

しかし、弟の小早川隆景が誓紙をやぶって世の信頼を失うことは毛利のためにならないといって説き伏せたとされています(『同』)。

前述(「中国大返しはなぜ可能だったか?④」参照)のとおり、毛利は10日ごろになっても本能寺の変について正確な情報を掴んでいない状態が続きますが、信長と嫡男信忠が討ち取られたという核心部分については、この4日の時点で入手していたと思います。

毛利陣営で前記のような毛利兄弟の激論が実際に交わされていたかどうかは推測の域を出ませんが、秀吉にしたら、毛利にいつ本能寺の情報が入るかどうかわからない状況下で、敵に後ろを見せて陣払いをおこなうのは危険でした。

なにしろ、高松城の西20㌔の地点には毛利の総大将輝元が大軍を率いて後詰めしているのです。講和の成立によって彼らが本当に撤退するかどうか、毛利の出方を窺う必要がありました。

また、高松には長期に及び在陣しています。陣払いといっても、兵だけが動けばすむ話ではなく、かきあつめた兵糧をどうするかという問題もあります。たとえば兵糧を荷駄に積むにしても、その準備には相当な時間がかかります。兵糧をほったらかしにし、慌てて撤退すれば、毛利方に怪しまれてしまいます。

以上が”2日間の空白”が生まれた理由だと考えられます。

6日の午後になり、秀吉は、ようやく相手が動く気配をみせないことを確認したものの、それでも毛利軍を警戒して、まずは味方になった宇喜多方の沼城(岡山市)へ、そろそろと軍を動かすのです。
(つづく)

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