中国大返しはなぜ可能だったか?⑤ [豊臣秀吉]

秀吉は6月4日の早朝、すでに本能寺の変の情報を掴んでいました。そこで秀吉は講和交渉中だった毛利に対して領土面で大幅な譲歩を示し、毛利方も渋っていた高松城主・清水宗治の切腹を承諾します。

宗治が切腹したのは4日の午前9時ごろでした。しかし、秀吉はすぐさま陣払いしたわけではありません。

『浅野家文書』には「六日まで逗留致し」とあり、秀吉軍の陣払いは6日になってからだということがわかります。それでは丸2日間、秀吉は高松で何をしていたのでしょうか。

秀吉の手で主君信長の仇を報じるためには時間との勝負になります。へたをすると、大坂にいた丹羽長秀はじめ、織田家諸将に先を越されてしまうからです。しかし、その2日間の秀吉の行動の詳細は明らかになっていません。”2日間の空白”ともいえる秀吉のこの行動は謎といえます。

そこで、4日の宗治切腹後の時点にまで立ち戻り、その日の状況を確認しておきましょう。

そのころ、毛利方にもようやく本能寺の変に関する一報が入ります。もちろん、誤報だらけの情報でしたが、本能寺で信長が討ち取られたという一事だけは正確でした。

まず『毛利家記』によると、光秀のところにいた毛利家ゆかりの者が飛脚を飛ばしたものの、「海上風烈しくして摂州御影(神戸市東灘区)より歩行して延引す」と記されています。この飛脚の到着は遅れましたが、毛利家が上方に置いた使者からの注進が4日の午後5時ごろ、輝元の陣営に届けられます(『川角太閤記』)。

すでに秀吉との講和は成立したあとでしたが、「信長死ス!」の急報に接し、このとき毛利の陣営で激論が交わされるのです…。(つづく)

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