中国大返しはなぜ可能だったか?④ [豊臣秀吉]

6月3日から4日の深夜にかけて正確な情報を掴んでいた秀吉に対して、毛利方は飛び交う雑言流言に惑わされていました。

『萩藩閥閲録』に所収される6月6日付小早川隆景(毛利元就3男)書状に、当時の混乱した様子が記されています。隆景はこのとき備中高松城の後詰めとして秀吉と対陣中でしたが、国元の桂元忠へ、こう伝えています。

「急度申候、京都之儀、去朔日信長父子討果、同二日ニ於大坂三七生害無残所候、七兵衛尉、明智、柴田以調儀討果由候(後略)」

「さる一日、信長父子討ち果たされ……」というくだりまでは、日付の誤り(本能寺の変は2日早朝に起きています)のみで正しい情報が隆景のもとに伝えられていますが、そこから先は、まるで出鱈目。

信長と嫡男信忠、さらに大坂で信長の3男信孝までも討ち取った下手人として「(織田)七兵衛尉(信長の甥・信澄のこと)」「明智(光秀)」「柴田(勝家)」の名を挙げています(逆に信澄は大坂で信孝に討ち取られているのです)。

同じく隆景は15日、国元の重臣粟屋元種宛てに、播州からたったいま入った情報だとして、

「今度謀叛之衆、明智・大和筒井・安土に福角(富)・美濃三人衆」(「三原浅野家文書」)

と述べています。隆景が本能寺の変の「謀叛之衆」とした武将のうち、確かだったのは、やはり光秀だけです。筒井順慶は光秀との密接な関係からいって疑われても仕方がありませんし、「美濃三人衆」のうち安藤守就は信長に追放され、実際に信長の死によって再起を試みていますから、誤報としてもまだ許されます。

しかし、「安土に福角」というのはいただけません。福角は信長の元馬廻り衆・福富秀勝のこと。本能寺の変の際、安土にはおらず、京の妙覚寺に駐留していた信忠の軍に加わっていました。しかも、秀勝はその後、信忠とともに二条御所へ入り、討ち死を遂げています。

毛利は、秀吉が光秀を打破る山崎の合戦のころになってもなお、出鱈目な情報に悩まされていたことになります。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


中国大返しはなぜ可能だったか?③ [豊臣秀吉]

本能寺の変は6月2日早朝に起きた事件。結果からいうと、通信手段を早飛脚などに頼るしかなかった時代に、秀吉は事件から48時間以内に詳細な情報を掴んでいました。

光秀は当然のことながら情報網を遮断するため、姫路方面へ走る密使には目を光らせていたはず。それでは、いったい秀吉はどんな“魔法”を使ったのでしょうか。

秀吉は、光秀の裏をかき、居城の近江長浜城から姫路城へ至る“丹波まわりの裏ルート”の情報網を確保していたのです。まさか光秀も、自分の領地を通って秀吉の密使が情報を運んでいたとは夢にも思わなかったのでしょう。

証拠もあります。その“裏ルート”上に夜久野(やくの)(福知山市)という土地があり、そこの地侍へ、秀吉の弟・秀長がこんな書状を出しています。

「(使者が)江州(近江)へ上下し候ところ、路次異義なく送り届られ候、祝着に候」

つまり、秀吉の居城・近江長浜城と姫路方面を安全に行き帰りでき、大変有り難く思っておりますと感謝し、引き続き、この裏ルートの往来の便宜を求めているのです。

秀吉の弟がわざわざ地侍に感謝の手紙を書くのだから、よほどのことがあったのでしょう。

秀長がこの手紙を夜久野の地侍に出したのは6月5日のことだと推測されています。3日から4日にかけての深夜、秀吉がこのルートを使って正確な情報を入手できたからこそ、秀長がその直後に礼状を出したと考えられます。

それでは毛利はいつ本能寺の変の情報を掴んだのでしょうか。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。

中国大返しはなぜ可能だったか?② [豊臣秀吉]

本能寺の変が勃発する前に毛利方と交渉がおこなわれていたからこそ、秀吉はすぐさま講和をまとめ、光秀との決戦に臨むことができました。

しかし、それも秀吉が毛利より早く正確な本能寺の変の情報を入手していたからに他なりません。これが中国大返しの奇跡を起こす大きな要因でした。

それでは、京からの情報が錯綜するなか、秀吉はどのように本能寺の変の情報を掴んだのでしょうか。

光秀から毛利への密使が誤って秀吉の陣へ紛れこんだとする有名な話がありますが、これは後世に作られた話です。

『別本川角太閤記』によると、光秀が早馬をしたて、毛利へ派遣した密使は「六月三日の深更に備中高松に著(着)」くものの、「暗き夜なれば過て秀吉の陣場の邊を」うろつき、秀吉の兵に怪しまれ、搦め捕られます。そして、密使の懐から「文箱」がでてきたので、秀吉がその中の書状を披見し、大いに驚いたというのです。

果たして、秀吉にとって、こんな都合のいい話が起こるでしょうか。いくら深夜だったとはいえ、密使が毛利と秀吉の陣所を間違えるはずがありません。『別本川角太閤記』はそのあと、密書そのものを掲載していますが、それは偽文書(ぎもんじょ)、つまり後世の誰かが作った“ニセ手紙”だとされています。

『川角太閤記』は秀吉の家臣・田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が当時の話をかき集めたものであり、比較的史料価値は高いものの、その『別本』となると、史料価値がかなり下がります。

ただ、6月3日から4日にかけての深夜、秀吉が正確な情報を入手したことは、ほかの信頼できる史料からも確認できます。それでは、秀吉はどんな”魔法”を使ったのでしょうか?(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


中国大返しはなぜ可能だったか?① [豊臣秀吉]

羽柴(のちの豊臣)秀吉が本能寺の凶報を知ったのは6月4日の未明ごろです。そのとき彼は備中高松城を包囲していました。20㌔西には毛利輝元率いる大軍が高松城の後詰めに現われ、秀吉は信長の加勢を待っていたのです。

環境としてこれほど悪い状況はありません。秀吉より先に、毛利に本能寺の変の情報が伝われば、大軍を擁していた毛利によって羽柴軍は殲滅されていた可能性がありました。ところが、この困難な情勢の中、秀吉は毛利と講和を結んで軍を引かせ、6月11日の夕方、京の近郊・山崎(大山崎町)で明智光秀の軍勢を撃破しています。

その間、秀吉が凶報を知ってから、7日とおよそ半日。まるで魔法でも使ったかのような手際のよさです。なぜ、奇跡ともいえる「中国大返し」が可能となったのか、考えてみましょう。

まず秀吉が、本能寺の変の凶報に接する前から毛利と講和の話を進めていたこと。これが秀吉に幸運をもたらしました。

毛利の殲滅を意図していた信長に対して、秀吉はより穏便な紛争解決方法を模索していました。つまり、信長とは温度差があったのです。

秀吉は毛利方の外交僧・安國寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼んで講和の道を探らせまする(『萩藩閥閲録』)。

本能寺の変の直前、毛利が備後・出雲・伯耆・美作・備中の五ヶ国を信長に差し出す方向で講和の話がまとまりかけていました。秀吉も、毛利がそこまで譲歩するなら何も雌雄を決する必要はなく、その講和案に信長も納得すると読んでいたのでしょう。

ただ、輝元は高松城主清水宗治の切腹に承服せず、秀吉と輝元の間を恵瓊が周旋して回っています。

よく秀吉は、運に恵まれていたといわれます。その言葉があたっているとしたら、まさにこのとき。本能寺の変が勃発する前に毛利方と講和交渉がおこなわれていなければ、信長が討たれという報に接してすぐ毛利との講和をまとめ、光秀との決戦に臨むことができなかったからです。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。

小牧長久手の合戦の謎(最終回) [豊臣秀吉]

土佐の長宗我部元親は、小牧へ出陣して秀吉が不在の大坂を狙い、

「四国より(中略)二万(の軍勢を)さし渡さる」(『元親記』)

計画を企てたとされます。しかし、このときの長宗我部家の内情(別の機会に詳述します)を考えると、とても元親が本気でこの計画を実行しようとしていたとは思えません。ただし、ネゴロスの”大坂占拠計画”のほうは事実でした。

彼らをネゴロスと名付けたのは南蛮人宣教師ルイス・フロイスです。彼らの正体はいったい何なのでしょうか。

フロイスがネゴロスと呼ぶ集団は、和泉山脈の南麓に広がる新義真言宗本山根来寺(和歌山県岩出市)の行人(ぎょうにん)たちのこと。根来寺は山内一帯に2000の堂塔を擁し、各々の堂塔には院主とそれに仕える僧兵がいて、彼らを総称して行人と呼ばれていました。行人の数はおよそ1000。

江戸時代の記録に「紀州・泉州・河州・摂州四箇国にて、五十万石あまり領知仕り候」とあるとおり、戦国大名に比肩される存在でした。

フロイスによると、彼ら行人の本務は「不断に軍事訓練にいそしむこと」であり、規則は「毎日一本の矢を作ること」だといいます。とくに彼らは鉄砲と弓矢に熟達していました。

秀吉が家康と対陣している隙に乗じ、そのネゴロスが大坂の町を焼き払い、大坂城を占拠しようとしました。大坂の町人らは、彼らが総勢1万5000の軍勢を催し、来襲するという噂におののきます。町人らは家を捨てて逃げ出し、誰もいなくなった街路には盗賊が溢れかえりました。

浪花の老若男女を戦慄させたネゴロスの軍勢は、和泉国岸和田城の中村一氏によって撃退されるまで、大坂をめざし北上を続けたのです。

秀吉にしたら、とても小牧で家康と対陣している余裕などはありません。のちに、この”空き巣狙い”ともいえる行為が秀吉の逆鱗に触れ、翌年、根来寺は秀吉に焼き討ちにされ滅亡します。

それはともかく、秀吉も家康も、それぞれ抱える事情により、この合戦が両家の雌雄を決する一戦だと考えてはいませんでした。1人、織田信雄の鼻息だけが荒かったといえるでしょう。

結局、秀吉と家康の直接対決はこうして決着をみずに、講和によって終結します。ただ、家康がその後、秀吉に臣従し、秀吉は関東以北と四国・九州を除き、ほぼ天下を掌握することになりました。


小牧長久手の合戦の謎③ [豊臣秀吉]

家康を追って龍泉寺に入った秀吉は、徳川勢の攻撃に備え、一夜で堀を築かせます。

その”一夜堀”が完成する前に、小幡城の徳川勢に夜襲をかけられたら、羽柴勢は大きな損害を蒙ったことでしょう。秀吉は家康に“裏の裏”をかかれ、頭に血が上っていたのかもしれません。危険を覚悟で夜営したのです。

逆に徳川勢にしたら、千載一遇のチャンスが目の前にぶら下がっていたといえます。

まぎれもない勝機です。ところが、家康はこのチャンスを無視し、夜陰にまぎれて小牧山城へ帰ってしまいました。

いったい、なぜなのでしょうか。

家康はのちに秀吉に臣従しますが、そうなってからの話です。徳川四天王と呼ばれる重臣らを前に、このときを振り返って、家康はこう述懐しています。

「其(その)節(せつ)夜戦(よいくさ)にかからば、必ず勝べしとは思ひたり。しかしながら、秀吉を討ち洩しなば、散々のことと思ひ、右の趣(おもむき)を用ひざるなり」(『名将言行録』)

家康にしたら、主筋の信雄に弓引く不届き者の秀吉に対して、長久手の一戦で勝利したという名声さえ得れば、それでよかったのでしょう。もしも夜戦で秀吉を討ち洩らし、激怒させたら、秀吉は本気で徳川を潰しにかかると考えたのです。

それでは、一方の秀吉はどうだったでしょうか。長久手での合戦には敗れたものの、その後、大坂と尾張・美濃を幾度となく往復し、やがて大軍で徐々に織田・徳川連合軍を圧倒するものの、信雄と単独講和し、のちに家康とも講和するに至ります。

一気に連合軍を叩き潰すことはできましたが、秀吉はそれをやらずに講和の道を選びました。秀吉には、はなから主筋にあたる信雄を抹殺する意志がなかったことも理由のひとつです。

しかし、もうひとつ大きな理由がありました。このとき、土佐の長宗我部と紀州のネゴロスによる”大坂占拠計画”が秘かに進行していたのです。(つづく)



小牧長久手の合戦の謎② [豊臣秀吉]

家康が要害の地(小牧山城)をおさえたことにより、上方軍(羽柴勢)はいかに大軍を擁しているとはいえ、無理に攻めかかれば、大敗を喫する危険がありました。一方の家康も相手が大軍である以上、なかなか仕掛けられません。

こうして両軍の睨み合いが続いていたとき、徳川方は秀吉を挑発しようとします。重臣の榊原康政が

「織田家に向かひ弓を引く事、不義悪逆の至りなり」

という檄文を撒いたのです。ここでいう織田家というのは信雄のこと。これを読んだ秀吉が激怒し、康政の首に10万石の懸賞をかけたという話は、有名です。

その挑発に乗ったわけではないのでしょうが、秀吉は停滞した戦局を打破しようと、甥の三好秀次(のちの関白豊臣秀次)に、池田恒興・森長可・堀秀政の3将をつけ、長駆、家康の本拠三河を衝く――軍事用語でいう“中入り策”に打ってでます。

通説は恒興もしくは秀次の献策だしていますが、実際には、敵に要害を奪われ、動くに動けない秀吉の苦肉の策だったのだと思います。

しかし、その中入り部隊は、2万におよぶ大軍。この動きは家康に筒抜けになっていました。家康は小牧山城から主力をもって秀次らの部隊を追撃。いったん小幡城(名古屋市)へ入ると、榊原康政らに先駆けさせ、自身も信雄とともに出陣します。

一方、中入り部隊はおおむね1番隊の池田隊から順に、森隊・堀隊・三好隊と行軍し、4月9日の朝、食事を終えて警戒を緩めていた最後尾4番隊の三好隊が、白山林(名古屋市)で捕捉され、徳川軍に奇襲されます。

この奇襲で三好隊は総崩れとなり、3番隊の堀隊の参戦によって形勢を挽回したのも束の間、

「(家康の)金の扇の馬印、峯際より朝日の出るが如く」(『太閤記』)

に現れ、それを見た上方勢の雑兵らは、家康本隊の到着に浮き足立ってしまいます。そして、残る1番隊と2番隊が長久手でふたたび徳川・織田連合軍と激突したものの、恒興・長可の両将が討ち取られ、大敗北を喫したのです。

その日の午後、秀吉も白山林での敗報を聞いて、すぐさま家康の本隊を追い、夕刻、家康が小幡城に拠っているという情報を得るや、城から2㌔程度はなれた龍泉寺へ入りました。

まず秀吉は徳川勢の攻撃に備え、一夜で堀を築きます(のちに、一夜堀と呼ばれるようになります)。

しかし、一夜堀が完成する前に小幡城の徳川勢に夜襲をかけられたら、上方軍はひとたまりもありません。逆に家康にとって、これはまぎれもない勝機でした……。(つづく)

小牧長久手の合戦の謎① [豊臣秀吉]

賤ヶ嶽の合戦に勝利した羽柴秀吉は毛利に続き、上杉を外交戦術によって懐柔しようとします。それでも四国の長宗我部や紀州の根来寺・雑賀一揆といった敵に背後から圧力を受けていた秀吉は、なるべくなら合戦を避けたいと思っていたはずです。

そんな秀吉にとって、はなはだ迷惑だったのは信長の次男織田信雄の動きでした。

賤ヶ嶽の合戦のとき、信長の3男・信孝を擁した柴田勝家に抗するため、秀吉は次男・信雄を総大将に担ぎだしました。その流れで織田家の家督は、信雄が継ぐこととなったものの、勝家の敗死後、秀吉との関係がこじれ、信雄は徳川家康と手を結んでしまったのです。

しかし、織田家の正式な当主となった信雄に、秀吉が弓引くことは公然と織田家に叛旗を翻すことになります。そこで秀吉は養女の江(浅井長政3女)を信雄の重臣・佐治一成へ嫁がせて融和を図ろうとしました。

ところが逆に信雄は、非戦派の老臣3名を誅殺します。そのうち、岡田重孝は「秀吉公機愛之人」(『当代記』)と呼ばれる武将。両家融和のために秀吉が送りこんでいた人物だったのです。

つまり、信雄は、秀吉の融和路線を公然と蹴ったことになり、ここに、秀吉は戦いの口実を得ます。しかし、秀吉は信雄を滅ぼすことまで考えていたわけではなく、「せっかく融和を図ろうとしたのに、なぜお蹴りになられるのですか? いくら織田家のご当主とは申せ、少しお灸をすえねばなりませんな」という程度の心底であったと思います。

このとき信雄は尾張・伊勢・伊賀を領しており、羽柴勢がまず伊勢に攻め入って、その方面で合戦の火蓋が切られます。やがて、旗幟を鮮明にしていなかった池田恒興が信雄領の犬山城を攻め落としたことから、尾張方面が戦場となります。

浜松を発って信雄の居城清洲に入った家康は、さすが合戦の名人。廃城となっていた小牧山城を修築し、入城します。

一方の秀吉は、小牧表の楽田(犬山市)に本陣をすえます。このとき『当代記』によると、秀吉の上方勢は「其勢十萬」(実際には6~8万)。かたや、「家康信雄勢一萬六七千」(実際には3~6万)。上方勢は数で押しているとはいえ、先に要害の地(小牧山城)を敵に奪われたのは痛手でした……。(つづく)

賤ヶ嶽の合戦の真相(最終回) [豊臣秀吉]

話を少し遡ります。岐阜から木之本へもどった羽柴勢が佐久間盛政隊へ攻勢をかけ、夜が明けて佐久間隊が敗走を始めると、そのとき賤ヶ嶽山頂付近にいた秀吉は馬廻りの者らを振り返り、

「時分はいまなるぞ、かかれ兵ども」(『賤嶽合戦記』)と、自ら法螺を吹き鳴らして追撃を命じます。

彼らのうち、1番槍の手柄を立て、秀吉から感状を賜った者がのちに「七本槍」と讃えられますが、じつは「九本槍」になる予定だったという話もあります。

加藤虎之助(清正)が柴田方の猛将・山路将監と共に坂を転げ落ちながらも、見事、首級を挙げる場面は後世に語り継がれる賤ヶ嶽合戦の名シーンの一つですが、意外にも敵陣へ真っ先に敵へ斬りこんだのは石川兵助という「七本槍」に含まれない小姓でした。

ただし、このとき兵助は敵方の拝郷五左衛門に討ち取られてしまいます。その仇は、福島市松(正則)がとりました。そして、こんどは宿屋七左衛門に、これまた「七本槍」に含まれない桜井武吉が突きかかります。ところが武吉も窮地に陥ります。そこへ「七本槍」に含まれる糟屋内膳助(武則)が来て、宿屋を討ち取るのです。

石川兵助は討ち死にし、桜井佐吉も合戦後すぐに病死しています。こうして「九本槍」が「七本槍」になったという説があります。実際に、このときの情景を描いた屏風絵には8人以上の武士が描かれています。やはり、亡くなった2人をはずし、語呂のいい「七本槍」になったということなのでしょうか。

しかし、「七本槍」に漏れたのは彼らだけではありません。意外な武将がその中にいました。『一柳家記』に、

「石田佐吉 後(のちの)治部(じぶ)少(しょう)」(『一柳家記』)

とあります。後年、治部少の官位を賜り、文吏派となる石田三成は、清正・正則ら“七本槍組”の武断派諸将と対立しますが、このときばかりは、彼らと共に、賤ヶ嶽の山裾を逆落としに敵陣へ斬りこんでいたのです。

その佐吉と共に山裾を駈けおりた先懸衆の中には、桂松もいました。

のちに大谷刑部吉継と呼ばれる武将です。ご承知のとおり、のちの関ヶ原の合戦で盟友の三成に殉じ、敗れるとわかっていながら西軍に属し、壮絶な最後を遂げる悲運の武将です。

ただし、このとき三成も吉継も手柄を立てられず、「七本槍」になりそこないました。

ただし、そもそも「七本槍」の名声は、子飼いの武将のいない秀吉が彼らを売り出すため必要以上に喧伝したというのが真相であり、彼らが佐久間勢を追撃した際、すでに勝敗の決着はついています。したがって、「七本槍」の功名に3000石加増の価値があったかどうかは、はなはだ疑問。加藤清正はそんな事情をよく理解していたからこそ、のちに「七本槍」の話題をひどく嫌ったといいます。

次回(明日の予定)は、小牧長久手の合戦の謎に迫りたいと思います。

賤ヶ嶽の合戦の真相⑤ [豊臣秀吉]

秀吉不在の羽柴勢陣地を急襲し、岩崎山・大岩山の両砦を落とした佐久間盛政が欲を出します。

前回述べたとおり、賤ヶ嶽砦は丹羽長秀の”名アシスト”により、羽柴勢が死守しています。盛政は敵陣で夜営し、翌朝、その賤ヶ嶽砦を攻撃しようとしたのです。総大将の勝家は、それを危険な策と考え、「引きとれとの便(命令)、千度百度数しらず」(『賤嶽合戦記』)と、執拗に撤退命令を出します。

しかし、盛政はその軍令を無視しました。

じつは、少し時間を遡ってその日の正午ごろ、大垣にいた秀吉は木之本の実弟・秀長から柴田勢急襲の知らせを受け、得意の“大返し”を決意していました。

このとき、『賤嶽合戦記』や『太閤記』によると、秀吉は、街道筋の村々に乗り換え用の馬や松明さらには兵の食糧や馬の餌まで用意させていたといいます。おそらく、柴田勢が秀吉不在中に攻撃を仕掛けてくると考え、往路、街道筋の村々に命じて用意させていたのでしょう。

1万5000の羽柴勢全軍が兵を返したのが午後4時。単騎先発していた秀吉は午後9時に木之本へ到着したというから、信じられない猛スピードです。

そして、秀吉は全軍が木之本へ戻った夜半すぎ、佐久間隊への攻撃を命じます。そして、夜が明けて彼らが敗走を始めると、賤ヶ嶽山頂付近にいた秀吉は本陣に控えていた小姓らにも追撃を命じます。

こうして佐久間隊が大崩れし、前田利家隊が戦場離脱(利家が秀吉と裏で通じていたという説もあります)するや、柴田勢の敗勢は決定的となります。

こうみてくると、秀吉の勝因は山崎の合戦に次いで、敵方のミスに乗じたことになります。ただ、賤ヶ嶽砦が落ちていたら、盛政が命令違反を犯すこともなかったはず。そうなると、この合戦の行方はどうなっていたかわかりません。やはり、丹羽長秀が機転をきかし、賤ヶ嶽砦を死守したことが羽柴勢の大きな勝因でした。

次回は賤ヶ嶽の合戦とセットで語られる「賤ヶ嶽の七本槍」について考えてみたいと思います。(つづく)

賤ヶ嶽山頂付近から佐久間隊の進軍・退却ルートをのぞむ
賤ヶ岳山頂より佐久間隊進軍・退却ルート方面.jpg

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。