中国大返しはなぜ可能だったか?③ [豊臣秀吉]

本能寺の変は6月2日早朝に起きた事件。結果からいうと、通信手段を早飛脚などに頼るしかなかった時代に、秀吉は事件から48時間以内に詳細な情報を掴んでいました。

光秀は当然のことながら情報網を遮断するため、姫路方面へ走る密使には目を光らせていたはず。それでは、いったい秀吉はどんな“魔法”を使ったのでしょうか。

秀吉は、光秀の裏をかき、居城の近江長浜城から姫路城へ至る“丹波まわりの裏ルート”の情報網を確保していたのです。まさか光秀も、自分の領地を通って秀吉の密使が情報を運んでいたとは夢にも思わなかったのでしょう。

証拠もあります。その“裏ルート”上に夜久野(やくの)(福知山市)という土地があり、そこの地侍へ、秀吉の弟・秀長がこんな書状を出しています。

「(使者が)江州(近江)へ上下し候ところ、路次異義なく送り届られ候、祝着に候」

つまり、秀吉の居城・近江長浜城と姫路方面を安全に行き帰りでき、大変有り難く思っておりますと感謝し、引き続き、この裏ルートの往来の便宜を求めているのです。

秀吉の弟がわざわざ地侍に感謝の手紙を書くのだから、よほどのことがあったのでしょう。

秀長がこの手紙を夜久野の地侍に出したのは6月5日のことだと推測されています。3日から4日にかけての深夜、秀吉がこのルートを使って正確な情報を入手できたからこそ、秀長がその直後に礼状を出したと考えられます。

それでは毛利はいつ本能寺の変の情報を掴んだのでしょうか。(つづく)

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