中国大返しはなぜ可能だったか?② [豊臣秀吉]

本能寺の変が勃発する前に毛利方と交渉がおこなわれていたからこそ、秀吉はすぐさま講和をまとめ、光秀との決戦に臨むことができました。

しかし、それも秀吉が毛利より早く正確な本能寺の変の情報を入手していたからに他なりません。これが中国大返しの奇跡を起こす大きな要因でした。

それでは、京からの情報が錯綜するなか、秀吉はどのように本能寺の変の情報を掴んだのでしょうか。

光秀から毛利への密使が誤って秀吉の陣へ紛れこんだとする有名な話がありますが、これは後世に作られた話です。

『別本川角太閤記』によると、光秀が早馬をしたて、毛利へ派遣した密使は「六月三日の深更に備中高松に著(着)」くものの、「暗き夜なれば過て秀吉の陣場の邊を」うろつき、秀吉の兵に怪しまれ、搦め捕られます。そして、密使の懐から「文箱」がでてきたので、秀吉がその中の書状を披見し、大いに驚いたというのです。

果たして、秀吉にとって、こんな都合のいい話が起こるでしょうか。いくら深夜だったとはいえ、密使が毛利と秀吉の陣所を間違えるはずがありません。『別本川角太閤記』はそのあと、密書そのものを掲載していますが、それは偽文書(ぎもんじょ)、つまり後世の誰かが作った“ニセ手紙”だとされています。

『川角太閤記』は秀吉の家臣・田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が当時の話をかき集めたものであり、比較的史料価値は高いものの、その『別本』となると、史料価値がかなり下がります。

ただ、6月3日から4日にかけての深夜、秀吉が正確な情報を入手したことは、ほかの信頼できる史料からも確認できます。それでは、秀吉はどんな”魔法”を使ったのでしょうか?(つづく)

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