小牧長久手の合戦の謎③ [豊臣秀吉]
家康を追って龍泉寺に入った秀吉は、徳川勢の攻撃に備え、一夜で堀を築かせます。
その”一夜堀”が完成する前に、小幡城の徳川勢に夜襲をかけられたら、羽柴勢は大きな損害を蒙ったことでしょう。秀吉は家康に“裏の裏”をかかれ、頭に血が上っていたのかもしれません。危険を覚悟で夜営したのです。
逆に徳川勢にしたら、千載一遇のチャンスが目の前にぶら下がっていたといえます。
まぎれもない勝機です。ところが、家康はこのチャンスを無視し、夜陰にまぎれて小牧山城へ帰ってしまいました。
いったい、なぜなのでしょうか。
家康はのちに秀吉に臣従しますが、そうなってからの話です。徳川四天王と呼ばれる重臣らを前に、このときを振り返って、家康はこう述懐しています。
「其(その)節(せつ)夜戦(よいくさ)にかからば、必ず勝べしとは思ひたり。しかしながら、秀吉を討ち洩しなば、散々のことと思ひ、右の趣(おもむき)を用ひざるなり」(『名将言行録』)
家康にしたら、主筋の信雄に弓引く不届き者の秀吉に対して、長久手の一戦で勝利したという名声さえ得れば、それでよかったのでしょう。もしも夜戦で秀吉を討ち洩らし、激怒させたら、秀吉は本気で徳川を潰しにかかると考えたのです。
それでは、一方の秀吉はどうだったでしょうか。長久手での合戦には敗れたものの、その後、大坂と尾張・美濃を幾度となく往復し、やがて大軍で徐々に織田・徳川連合軍を圧倒するものの、信雄と単独講和し、のちに家康とも講和するに至ります。
一気に連合軍を叩き潰すことはできましたが、秀吉はそれをやらずに講和の道を選びました。秀吉には、はなから主筋にあたる信雄を抹殺する意志がなかったことも理由のひとつです。
しかし、もうひとつ大きな理由がありました。このとき、土佐の長宗我部と紀州のネゴロスによる”大坂占拠計画”が秘かに進行していたのです。(つづく)
その”一夜堀”が完成する前に、小幡城の徳川勢に夜襲をかけられたら、羽柴勢は大きな損害を蒙ったことでしょう。秀吉は家康に“裏の裏”をかかれ、頭に血が上っていたのかもしれません。危険を覚悟で夜営したのです。
逆に徳川勢にしたら、千載一遇のチャンスが目の前にぶら下がっていたといえます。
まぎれもない勝機です。ところが、家康はこのチャンスを無視し、夜陰にまぎれて小牧山城へ帰ってしまいました。
いったい、なぜなのでしょうか。
家康はのちに秀吉に臣従しますが、そうなってからの話です。徳川四天王と呼ばれる重臣らを前に、このときを振り返って、家康はこう述懐しています。
「其(その)節(せつ)夜戦(よいくさ)にかからば、必ず勝べしとは思ひたり。しかしながら、秀吉を討ち洩しなば、散々のことと思ひ、右の趣(おもむき)を用ひざるなり」(『名将言行録』)
家康にしたら、主筋の信雄に弓引く不届き者の秀吉に対して、長久手の一戦で勝利したという名声さえ得れば、それでよかったのでしょう。もしも夜戦で秀吉を討ち洩らし、激怒させたら、秀吉は本気で徳川を潰しにかかると考えたのです。
それでは、一方の秀吉はどうだったでしょうか。長久手での合戦には敗れたものの、その後、大坂と尾張・美濃を幾度となく往復し、やがて大軍で徐々に織田・徳川連合軍を圧倒するものの、信雄と単独講和し、のちに家康とも講和するに至ります。
一気に連合軍を叩き潰すことはできましたが、秀吉はそれをやらずに講和の道を選びました。秀吉には、はなから主筋にあたる信雄を抹殺する意志がなかったことも理由のひとつです。
しかし、もうひとつ大きな理由がありました。このとき、土佐の長宗我部と紀州のネゴロスによる”大坂占拠計画”が秘かに進行していたのです。(つづく)
2011-08-10 10:37
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