小牧長久手の合戦の謎② [豊臣秀吉]

家康が要害の地(小牧山城)をおさえたことにより、上方軍(羽柴勢)はいかに大軍を擁しているとはいえ、無理に攻めかかれば、大敗を喫する危険がありました。一方の家康も相手が大軍である以上、なかなか仕掛けられません。

こうして両軍の睨み合いが続いていたとき、徳川方は秀吉を挑発しようとします。重臣の榊原康政が

「織田家に向かひ弓を引く事、不義悪逆の至りなり」

という檄文を撒いたのです。ここでいう織田家というのは信雄のこと。これを読んだ秀吉が激怒し、康政の首に10万石の懸賞をかけたという話は、有名です。

その挑発に乗ったわけではないのでしょうが、秀吉は停滞した戦局を打破しようと、甥の三好秀次(のちの関白豊臣秀次)に、池田恒興・森長可・堀秀政の3将をつけ、長駆、家康の本拠三河を衝く――軍事用語でいう“中入り策”に打ってでます。

通説は恒興もしくは秀次の献策だしていますが、実際には、敵に要害を奪われ、動くに動けない秀吉の苦肉の策だったのだと思います。

しかし、その中入り部隊は、2万におよぶ大軍。この動きは家康に筒抜けになっていました。家康は小牧山城から主力をもって秀次らの部隊を追撃。いったん小幡城(名古屋市)へ入ると、榊原康政らに先駆けさせ、自身も信雄とともに出陣します。

一方、中入り部隊はおおむね1番隊の池田隊から順に、森隊・堀隊・三好隊と行軍し、4月9日の朝、食事を終えて警戒を緩めていた最後尾4番隊の三好隊が、白山林(名古屋市)で捕捉され、徳川軍に奇襲されます。

この奇襲で三好隊は総崩れとなり、3番隊の堀隊の参戦によって形勢を挽回したのも束の間、

「(家康の)金の扇の馬印、峯際より朝日の出るが如く」(『太閤記』)

に現れ、それを見た上方勢の雑兵らは、家康本隊の到着に浮き足立ってしまいます。そして、残る1番隊と2番隊が長久手でふたたび徳川・織田連合軍と激突したものの、恒興・長可の両将が討ち取られ、大敗北を喫したのです。

その日の午後、秀吉も白山林での敗報を聞いて、すぐさま家康の本隊を追い、夕刻、家康が小幡城に拠っているという情報を得るや、城から2㌔程度はなれた龍泉寺へ入りました。

まず秀吉は徳川勢の攻撃に備え、一夜で堀を築きます(のちに、一夜堀と呼ばれるようになります)。

しかし、一夜堀が完成する前に小幡城の徳川勢に夜襲をかけられたら、上方軍はひとたまりもありません。逆に家康にとって、これはまぎれもない勝機でした……。(つづく)
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