小牧長久手の合戦の謎① [豊臣秀吉]

賤ヶ嶽の合戦に勝利した羽柴秀吉は毛利に続き、上杉を外交戦術によって懐柔しようとします。それでも四国の長宗我部や紀州の根来寺・雑賀一揆といった敵に背後から圧力を受けていた秀吉は、なるべくなら合戦を避けたいと思っていたはずです。

そんな秀吉にとって、はなはだ迷惑だったのは信長の次男織田信雄の動きでした。

賤ヶ嶽の合戦のとき、信長の3男・信孝を擁した柴田勝家に抗するため、秀吉は次男・信雄を総大将に担ぎだしました。その流れで織田家の家督は、信雄が継ぐこととなったものの、勝家の敗死後、秀吉との関係がこじれ、信雄は徳川家康と手を結んでしまったのです。

しかし、織田家の正式な当主となった信雄に、秀吉が弓引くことは公然と織田家に叛旗を翻すことになります。そこで秀吉は養女の江(浅井長政3女)を信雄の重臣・佐治一成へ嫁がせて融和を図ろうとしました。

ところが逆に信雄は、非戦派の老臣3名を誅殺します。そのうち、岡田重孝は「秀吉公機愛之人」(『当代記』)と呼ばれる武将。両家融和のために秀吉が送りこんでいた人物だったのです。

つまり、信雄は、秀吉の融和路線を公然と蹴ったことになり、ここに、秀吉は戦いの口実を得ます。しかし、秀吉は信雄を滅ぼすことまで考えていたわけではなく、「せっかく融和を図ろうとしたのに、なぜお蹴りになられるのですか? いくら織田家のご当主とは申せ、少しお灸をすえねばなりませんな」という程度の心底であったと思います。

このとき信雄は尾張・伊勢・伊賀を領しており、羽柴勢がまず伊勢に攻め入って、その方面で合戦の火蓋が切られます。やがて、旗幟を鮮明にしていなかった池田恒興が信雄領の犬山城を攻め落としたことから、尾張方面が戦場となります。

浜松を発って信雄の居城清洲に入った家康は、さすが合戦の名人。廃城となっていた小牧山城を修築し、入城します。

一方の秀吉は、小牧表の楽田(犬山市)に本陣をすえます。このとき『当代記』によると、秀吉の上方勢は「其勢十萬」(実際には6~8万)。かたや、「家康信雄勢一萬六七千」(実際には3~6万)。上方勢は数で押しているとはいえ、先に要害の地(小牧山城)を敵に奪われたのは痛手でした……。(つづく)
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