賤ヶ嶽の合戦の真相(最終回) [豊臣秀吉]

話を少し遡ります。岐阜から木之本へもどった羽柴勢が佐久間盛政隊へ攻勢をかけ、夜が明けて佐久間隊が敗走を始めると、そのとき賤ヶ嶽山頂付近にいた秀吉は馬廻りの者らを振り返り、

「時分はいまなるぞ、かかれ兵ども」(『賤嶽合戦記』)と、自ら法螺を吹き鳴らして追撃を命じます。

彼らのうち、1番槍の手柄を立て、秀吉から感状を賜った者がのちに「七本槍」と讃えられますが、じつは「九本槍」になる予定だったという話もあります。

加藤虎之助(清正)が柴田方の猛将・山路将監と共に坂を転げ落ちながらも、見事、首級を挙げる場面は後世に語り継がれる賤ヶ嶽合戦の名シーンの一つですが、意外にも敵陣へ真っ先に敵へ斬りこんだのは石川兵助という「七本槍」に含まれない小姓でした。

ただし、このとき兵助は敵方の拝郷五左衛門に討ち取られてしまいます。その仇は、福島市松(正則)がとりました。そして、こんどは宿屋七左衛門に、これまた「七本槍」に含まれない桜井武吉が突きかかります。ところが武吉も窮地に陥ります。そこへ「七本槍」に含まれる糟屋内膳助(武則)が来て、宿屋を討ち取るのです。

石川兵助は討ち死にし、桜井佐吉も合戦後すぐに病死しています。こうして「九本槍」が「七本槍」になったという説があります。実際に、このときの情景を描いた屏風絵には8人以上の武士が描かれています。やはり、亡くなった2人をはずし、語呂のいい「七本槍」になったということなのでしょうか。

しかし、「七本槍」に漏れたのは彼らだけではありません。意外な武将がその中にいました。『一柳家記』に、

「石田佐吉 後(のちの)治部(じぶ)少(しょう)」(『一柳家記』)

とあります。後年、治部少の官位を賜り、文吏派となる石田三成は、清正・正則ら“七本槍組”の武断派諸将と対立しますが、このときばかりは、彼らと共に、賤ヶ嶽の山裾を逆落としに敵陣へ斬りこんでいたのです。

その佐吉と共に山裾を駈けおりた先懸衆の中には、桂松もいました。

のちに大谷刑部吉継と呼ばれる武将です。ご承知のとおり、のちの関ヶ原の合戦で盟友の三成に殉じ、敗れるとわかっていながら西軍に属し、壮絶な最後を遂げる悲運の武将です。

ただし、このとき三成も吉継も手柄を立てられず、「七本槍」になりそこないました。

ただし、そもそも「七本槍」の名声は、子飼いの武将のいない秀吉が彼らを売り出すため必要以上に喧伝したというのが真相であり、彼らが佐久間勢を追撃した際、すでに勝敗の決着はついています。したがって、「七本槍」の功名に3000石加増の価値があったかどうかは、はなはだ疑問。加藤清正はそんな事情をよく理解していたからこそ、のちに「七本槍」の話題をひどく嫌ったといいます。

次回(明日の予定)は、小牧長久手の合戦の謎に迫りたいと思います。
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