小牧長久手の合戦の謎(最終回) [豊臣秀吉]

土佐の長宗我部元親は、小牧へ出陣して秀吉が不在の大坂を狙い、

「四国より(中略)二万(の軍勢を)さし渡さる」(『元親記』)

計画を企てたとされます。しかし、このときの長宗我部家の内情(別の機会に詳述します)を考えると、とても元親が本気でこの計画を実行しようとしていたとは思えません。ただし、ネゴロスの”大坂占拠計画”のほうは事実でした。

彼らをネゴロスと名付けたのは南蛮人宣教師ルイス・フロイスです。彼らの正体はいったい何なのでしょうか。

フロイスがネゴロスと呼ぶ集団は、和泉山脈の南麓に広がる新義真言宗本山根来寺(和歌山県岩出市)の行人(ぎょうにん)たちのこと。根来寺は山内一帯に2000の堂塔を擁し、各々の堂塔には院主とそれに仕える僧兵がいて、彼らを総称して行人と呼ばれていました。行人の数はおよそ1000。

江戸時代の記録に「紀州・泉州・河州・摂州四箇国にて、五十万石あまり領知仕り候」とあるとおり、戦国大名に比肩される存在でした。

フロイスによると、彼ら行人の本務は「不断に軍事訓練にいそしむこと」であり、規則は「毎日一本の矢を作ること」だといいます。とくに彼らは鉄砲と弓矢に熟達していました。

秀吉が家康と対陣している隙に乗じ、そのネゴロスが大坂の町を焼き払い、大坂城を占拠しようとしました。大坂の町人らは、彼らが総勢1万5000の軍勢を催し、来襲するという噂におののきます。町人らは家を捨てて逃げ出し、誰もいなくなった街路には盗賊が溢れかえりました。

浪花の老若男女を戦慄させたネゴロスの軍勢は、和泉国岸和田城の中村一氏によって撃退されるまで、大坂をめざし北上を続けたのです。

秀吉にしたら、とても小牧で家康と対陣している余裕などはありません。のちに、この”空き巣狙い”ともいえる行為が秀吉の逆鱗に触れ、翌年、根来寺は秀吉に焼き討ちにされ滅亡します。

それはともかく、秀吉も家康も、それぞれ抱える事情により、この合戦が両家の雌雄を決する一戦だと考えてはいませんでした。1人、織田信雄の鼻息だけが荒かったといえるでしょう。

結局、秀吉と家康の直接対決はこうして決着をみずに、講和によって終結します。ただ、家康がその後、秀吉に臣従し、秀吉は関東以北と四国・九州を除き、ほぼ天下を掌握することになりました。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。