中国大返しはなぜ可能だったか?① [豊臣秀吉]

羽柴(のちの豊臣)秀吉が本能寺の凶報を知ったのは6月4日の未明ごろです。そのとき彼は備中高松城を包囲していました。20㌔西には毛利輝元率いる大軍が高松城の後詰めに現われ、秀吉は信長の加勢を待っていたのです。

環境としてこれほど悪い状況はありません。秀吉より先に、毛利に本能寺の変の情報が伝われば、大軍を擁していた毛利によって羽柴軍は殲滅されていた可能性がありました。ところが、この困難な情勢の中、秀吉は毛利と講和を結んで軍を引かせ、6月11日の夕方、京の近郊・山崎(大山崎町)で明智光秀の軍勢を撃破しています。

その間、秀吉が凶報を知ってから、7日とおよそ半日。まるで魔法でも使ったかのような手際のよさです。なぜ、奇跡ともいえる「中国大返し」が可能となったのか、考えてみましょう。

まず秀吉が、本能寺の変の凶報に接する前から毛利と講和の話を進めていたこと。これが秀吉に幸運をもたらしました。

毛利の殲滅を意図していた信長に対して、秀吉はより穏便な紛争解決方法を模索していました。つまり、信長とは温度差があったのです。

秀吉は毛利方の外交僧・安國寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼んで講和の道を探らせまする(『萩藩閥閲録』)。

本能寺の変の直前、毛利が備後・出雲・伯耆・美作・備中の五ヶ国を信長に差し出す方向で講和の話がまとまりかけていました。秀吉も、毛利がそこまで譲歩するなら何も雌雄を決する必要はなく、その講和案に信長も納得すると読んでいたのでしょう。

ただ、輝元は高松城主清水宗治の切腹に承服せず、秀吉と輝元の間を恵瓊が周旋して回っています。

よく秀吉は、運に恵まれていたといわれます。その言葉があたっているとしたら、まさにこのとき。本能寺の変が勃発する前に毛利方と講和交渉がおこなわれていなければ、信長が討たれという報に接してすぐ毛利との講和をまとめ、光秀との決戦に臨むことができなかったからです。(つづく)

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