川中島の合戦 ブログトップ

軍師・山本勘助は実在したか?(最終回) [川中島の合戦]

謙信が勘助の作戦を見破ったのでなければ、なぜ上杉勢は全軍妻女山を下り、深夜、千曲川を渡ったのでしょうか。

実は、それがあらかじめ予定された行動だったからだと思います。謙信の目的は、“苅田(かりた)狼藉(ろうぜき)”にあったと考えられます。

川中島の合戦は、善光平(長野市)の支配権をめぐる武田と上杉の局地戦。ところが、両軍対峙したままうごかず、このとき戦線は膠着していました。ただ単に軍を退いたのでは、善光平に影響力を残しておけません。そこで刈入れの季節を迎えた善光平で稲穂を刈ること、つまり、謙信はコメの“強奪”を企てたのです。

それは、川中島が上杉の縄張りであることを世間に公表する意味もあります。上杉と武田は5回にわたり川中島で対峙していますが、上杉勢は5回とも、秋の刈入れどきにあわせ、川中島へ出兵しています。しかも、上杉勢には、もっと直接的な理由がありました。

越後の冬はながく、食糧は不足しがち。謙信は何回も関東へ出兵していますが、ほとんど関東で越冬しています。二毛作ができない越後の兵たちは、関東で越冬し、敵方が蓄えてある越冬用の食糧を強奪して越後へ持ち帰っていたのです。

この川中島の合戦がおこなわれた旧暦の9月10日といえば、いまの10月下旬。稲には“刈入れ時期(どき)”があり、地方によって刈入れる日が決まっています。この年の善光寺平の刈入れ時期が10日前後だったのでしょう。

一方の武田方も、そろそろ上杉勢がいつもの“苅田狼藉”にでると読んでいたのでないでしょうか。『甲陽軍鑑』によると、信玄は「明日の合戦の備えを定めよ」と、10日に上杉軍がうごくことを前提に、勘助に作戦を立てさせていたことがわかります。

武田軍は上杉勢の移動前に機先を制し、妻女山を攻撃しようとしたものの上杉に先を越され、結果、上杉軍をはさみ討ちにすることができず、両軍は“であいがしら”の死闘を演じた――これが、川中島合戦が戦国史上空前の激戦となった真相だと思います。

つまり、「啄木鳥(きつつき)の戦法」(①参照)は存在せず、実在の山本「菅」助は残念ながら、『甲陽軍鑑』の中で活躍する勘助ほど、鬼才溢れる軍師という存在ではなかったのでしょう。

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軍師・山本勘助は実在したか?④ [川中島の合戦]

山本「菅」助という信玄の軍師は実在したが、『甲陽軍鑑』で活躍する軍師・山本「勘」助は架空の人物。

ここまでの検討で以上の結論に至りました。それでは、ふたたび川中島の合戦にもどり、「啄木鳥(きつつき)の戦法」(①参照)について考えてみましょう。これは山本菅助の策を、『甲陽軍鑑』の作者が山本勘助の策として取り扱い、若干の誇張を含めて記述した――とも考えられます。

しかし、結果からいうと、これは菅助の策どころか、武田方の戦術でもなかった可能性があると考えています。

それではなぜ、謙信は武田方の攻撃を予期するかのように、本陣としていた妻女山を下り、深夜、「鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)」(頼山陽)と、千曲川を渡河して武田軍の前面に回りこんだのでしょうか。

『甲陽軍鑑』によると、記述のとおり妻女山の謙信は、武田の本陣から慌ただしくたち上る炊飯の煙をみて、勘助の作戦を見破ったとあります。

しかし、それは謙信が勘助の作戦を見破ったためではなく、別の目的があったからだと考えています。その目的とは、いったい何だったのでしょうか?(つづく)

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軍師・山本勘助は実在したか?③ [川中島の合戦]

安中市(群馬県)の民家に伝わる古文書の中から、山本勘助に関係する古文書が発見されました。

ただし、それは信玄が「山本菅助」という家臣に宛てた書状(手紙)です。「勘」と「菅」の1字違い。手紙は2通みつかっています。

その手紙の内容から「菅助」は、軍師的な役割を担っていたことがわかります。

天文二十年(1551)に書かれたと推定される1通には「小山田種(腫)物相煩既ニ極難義候」とあり、信玄は、重臣の小山田信有の見舞いを命じているのです。

小山田信有は信玄の重臣とはいえ、甲斐国東部の都留郡をおさめる領主であり、武田家と同盟関係にありました。武田家重代の家臣ではありません。つまり、信玄を裏切る可能性もあったわけです。

その信有が腫れ物によって極めて重い病を患っているから、彼のもとにとどまって病状を見届けるようにという信玄の命令だったのです。その「腫物」自体、謀略のにおいがしてきます。

ここからは推測ですが、その「腫物」が何か毒物の副作用だとしましょう。信玄が「菅助」と仕組んだ謀略の成功を見届けるために、わざわざ見舞いに行かせたというのは考えすぎでしょうか。いずれにせよ、この手紙が単なる見舞いを命じるものでなかったことはたしかでしょう。

こう考えると、この「山本菅助」をモデルに、『甲陽軍鑑』の作者が希代の軍師として「山本勘助」を作り上げたと考えることができるでしょう。

もちろん、勘助のモデルとなった実在の「山本菅助」が川中島の合戦で例の「啄木鳥(きつつき)の戦法」を考えだした可能性もなくはありません。次回はそのことについて考えてみたいと思います。(つづく)

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軍師・山本勘助は実在したか?② [川中島の合戦]

信玄の軍師・山本勘助が献策した「啄木鳥(きつつき)の戦法」は、敵将の謙信に読まれ、裏をかかれて武田勢は窮地に陥ります。そして、大乱戦の中、勘助も命を落とします。

ただし、それは江戸初期に成立した軍記『甲陽軍鑑』の中での話です。

巷間、その勘助は架空の人物だといわれています。しかし、満更そうとはいいきれない証拠が最近発見されています。それについては後述させていただくとして、まず勘助の活躍が活写される『甲陽軍鑑』について触れておこうと思います。

この軍記は、甲州流軍学の祖・小幡景憲が書いた門人へのテキスト。

甲州流軍学の名を高めるにはヒーローが必要であり、景憲は、このテキスト(『甲陽軍鑑』)を、信玄の重臣・高坂昌信が書いた実録モノだということにして架空の軍師を登場させた――と解釈されています。

その『甲陽軍鑑』に、勘助は築城の名手として、また、「啄木鳥の戦法」などの戦術を縦横無尽に操る希代の軍師として描かれています。

ところが、釧路市の民家に伝わる古文書(『市河文書』)の発見により、2字違いですが、「山本菅介」という信玄の侍大将(重臣クラス)が実在していることが明らかとなりました。ただし、その「菅介」は伝令将校。軍師ではありません。

しかし、こんどは安中市(群馬県)の民家に伝わる古文書の中から、信玄が「山本菅助」という家臣に宛てた書状(手紙)が2通、みつかりました。こんどは1字違い。その山本菅助は軍師だったのでしょうか……。(つづく)

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軍師・山本勘助は実在したか?① [川中島の合戦]

川中島の合戦の名シーンは、大将どうしの一騎打ちだけではありません。

武田信玄の軍師・山本勘助が考案したとされる「啄木鳥(きつつき)の戦法」も、格調高い頼山陽(江戸時代の学者)の詩となって後世に語り継がれています。

山本勘助といえば、NHK大河ドラマ「風林火山」で俳優の内野聖陽さんが演じた”戦国のヒーロー”ですが、ご存じのとおり、武田方の軍記『甲陽軍鑑』が創作した架空の人物という見方が一般的です。

しかし、本当に架空の人物だとして一蹴していいものなのでしょうか。それを探り出してみたいと思います。まずはじめに、勘助が信玄に献策した「啄木鳥の戦法」についてみていくことにします。ご存じの方も多いと思いますが、しばらくおつきあい下さい。

勘助は信玄に「(2万の軍勢のうち)一万二千、謙信の陣どる西条山(妻女山)へ仕懸」(『甲陽軍鑑』)ように進言します。1万2000の遊軍が明朝午前5時を期して妻女山を奇襲すれば、上杉勢は、

「負け候ても勝ち候ても、(千曲)川を越し、退(の)きべく候」(『同』)

そうやって上杉勢が本国越後へ帰ろうとするところを狙い、ひそかに川を渡った信玄率いる8000の本軍と上杉勢を背後から追う遊軍で「跡先より押しはさみ」(はさみうち)にする作戦でした。

啄木鳥が木を叩き(武田方遊軍の妻女山攻撃を指します)、餌(上杉軍)がその音に釣られて出てくるのを待つところから、「啄木鳥の戦法」と呼ばれています。

しかし、妻女山の謙信は、武田の本陣から慌ただしくたち上る炊飯の煙をみて、勘助の作戦を見破るのです。

上杉軍は信玄より先んじて、9月9日の午後9時ごろ、物音一つたてず、のちに頼山陽が書いたとおり、「鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)」と、霧の中、千曲川を渡河します。

一方、そんなことは知るよしもない信玄は少し遅れて翌10日の明け方、8000の本軍を率いて、千曲川の広瀬の渡しを越えました。

だからこそ、霧が流れ、1万3000(うち3000は後詰)の上杉軍を至近距離の先にとらえた際、武田の将兵は激しく狼狽します。

それから一刻(2時間)、妻女山がもぬけの殻だと知った遊軍1万2000が戦場へ合流し、上杉軍が退却を始めるまでの間、両軍の総大将が互いに太刀打ちしなければならないほどの大乱戦となったのです……。(つづく)

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信玄と謙信の一騎打ちは史実か?(最終回) [川中島の合戦]

天海はこのころ武田家に寄宿し、川中島の合戦を目撃していました。

その目撃談には、

「御幣川の中へ両方(馬を)乗り入れて輝虎(謙信)も太刀、信玄も太刀にて(中略)戦い候」

とあります。

ここでも、信玄が御幣川まで逃げてきたことになっています。やはり、乱戦の中、信玄の本陣が切り崩され、大ピンチに陥っていたのはたしかなようです。

そして、注目すべきは、信玄の太刀討ちの相手を謙信だといっていること。しかし、結果からいうと、それは天海の見間違いでした。というのも、その日の激戦が終わり、天海が信玄の御前に伺候したときのことです。

謙信との太刀討ちの話になると、信玄の顔色が急に変わり、不機嫌な様子でこう吐き捨てたといいます。

「謙信と太刀討ちしたるは我にあらず。甲冑を同じくさせ候、信玄真似の法師武者(影武者)なり」

そのくせ、信玄は傷を負い、後ろに凭れなければならない状態。影武者どころか、信玄本人がその日の合戦で誰かと太刀討ちしていたのは明らかです。

それでなぜ信玄は、天海に嘘をつかなければならなかったのでしょう。それは、相手が謙信ではなかったからだと考えるしかありません。

武田方の『甲陽軍鑑』の著者は、信玄が名もない武者と一騎打ちしたのでは末代までの恥となるため、相手が敵将の謙信であり、それも正々堂々、本陣に突入してきた相手の太刀を軍配で受け返したと偽装したのでしょう。

この一騎打ちの真相はどうやら、信玄の相手を荒川伊豆守とする上杉方の史料(『上杉家御年譜』)に軍配があがったようです。

つまり、大乱戦の中、信玄も謙信も互いに太刀をとって戦ったが、大将どうしが相まみえることはなかった――というのが正解なのではないでしょうか。

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信玄と謙信の一騎打ちは史実か?④ [川中島の合戦]

『上杉家御年譜』によると、信玄は千曲川にそそぐ御幣川(おんべいがわ)のあたりまで逃げのびたことになっています。それをみて、上杉勢は御幣川の下流へと馬足を速めます。その上杉勢の中に、信玄を猛追した武将が1人いました。

荒川伊豆守という無名の武将です。その伊豆守は信玄をとらえ、斬りかかります。そのときの情景を『上杉家御年譜』はこう記しています。

「(伊豆守が信玄へ)三太刀マテ討共(うつとも)徹セズ(目的を達せず)、信玄太刀ヌキ合(あわ)スル間(ま)モナク(太刀を抜く暇もなく)、團(うちわ)ヲ以(もっ)テ受(うけ)ハツス」

伊豆守が三太刀、信玄へ斬りかかりますが、うまくかわされ、信玄は執拗な伊豆守の攻撃を何とか軍扇でかわしたというのです。『甲陽軍鑑』の記述(「信玄と謙信の一騎打ちは史実か?①」参照)と酷似している話です。

そのあと、信玄の危急を知った武田家重臣の原大隈守が伊豆守へ槍をいれ、「信玄忽チ運ヲ開ク」と記されています。

しかし、信玄の太刀打の相手が無名の武士であったことで、『甲陽軍鑑』の内容とは大きく異なっています。

いったい、武田方の史料(『甲陽軍鑑』)と上杉方の史料(『上杉家御年譜』)のどちらが正しいのでしょうか。ここはひとつ、両陣営に属さない公平な史料に答えを求めたいところです。

しかし残念ながら、そういう史料は見当たりません。ただし、この合戦を目撃していた第三者的な”ある有名人”がいました。

その有名人というのは、天海僧上その人です。ご存じ、のちに徳川家康の参謀となる怪僧ですが、前半生は謎につつまれています(彼の素性については別の機会に考えます)。

その天海が当日、近くの山から、合戦の模様を見学していたと、ある史料に記録されているのです。果たして天海の目に、この合戦はどう映ったのでしょうか。両雄一騎打ちの真相は、この怪僧が握っているといえそうです…。(つづく)

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信玄と謙信の一騎打ちは史実か?③ [川中島の合戦]

両雄一騎打ちの有力な手がかりを残してくれた人物。それは、公卿の関白近衛前久でした。

前久と謙信は前々から誼みがあり、前久の娘と謙信は“恋仲”の関係にあったといわれています。川中島の合戦後、その前久が謙信に、

「自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉」

つまり、ご自身で太刀討ちなさるとは比類なき武勇であり、天下の名誉だと、称賛の手紙を書き送っています。おそらく謙信は自慢話のつもりで、「自身太刀討」したという手紙を前久に出していたのでしょう。この文面はその返書にあたります。

したがって、この手紙がしばしば、“両雄太刀討ち説”の証拠として使われているようです。

謙信は信玄とちがい、何事も真一文字に突き進む性格であり、そんな謙信が、自身太刀をとって敵と戦ったことを誇ったとしても不思議ではありません。

しかし、忘れてならないのは、ここでも、「太刀討」の相手が信玄だと、ひと言も書かかれていないこと。文面からは、謙信の「太刀討」の相手が誰かは不明です。謙信が前久に出した手紙には、相手が信玄だと記されていたものの、前久が返書で省略したのでしょうか。

そう考えるほうが不自然だと思います。なぜなら、いかに戦国時代といえども、大将どうしの一騎打ちはそうある話ではないからです。相手が本当に敵将の信玄だったのなら、返書であっても、前久は“信玄と太刀討に及ばるる段”と記し、省略しないはずです。

そうしなかったのは、謙信の手紙に、そんな事実は記されていなかったからだと思います。

乱戦のなか、大将の謙信みずから太刀をとり、武田の将兵と戦っていたのは事実でしょう。ただ問題は、その中に信玄が含まれていたかどうかということです。

ここで上杉方の史料に目を向けてみましょう。『上杉家御年譜』によると、本陣を崩された信玄は、千曲川にそそぐ御幣川(おんべいがわ)のあたりまで逃げのびたことになっています。この内容を信じるなら、上杉勢に本陣を蹴散らされ、信玄は雨宮の渡しで千曲川を渡り、本国の甲斐方面へ逃走しようとする魂胆がみえみえです。

それをみて、上杉勢は御幣川の下流へと馬足を速めます。そして、武田方の兵が弓矢を捨ててこぞって逃走するなか、信玄を猛追した武将がいたのです……。(つづく)


信玄と謙信の一騎打ちは史実か?② [川中島の合戦]

両雄一騎打ちの“ネタ本”となった『甲陽軍鑑』は、そのシーンを次のように書いています。

上杉勢の突撃をくらって信玄の本陣が乱れたった、まさにそのとき――。

「萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)きたる武者」が「白手巾(しろてぬぐい)にて、つふり(頭)をつつみ」

月毛(つきげ)の馬に乗って参上したというのです。その武者は、太刀を鞘から抜いて信玄の床几にむかって真一文字に進むと、太刀を振り上げ、

「三刀伐(きり)奉る。信玄公たつて(立って)、軍配団扇にてうけ(受け)なさる。(信玄が)後(のち)みれば、うちは(団扇)に八刀(かたな)瑕(きず)あり」

白頭巾で頭をおおった謙信らしき武者が信玄に3太刀浴びせ、信玄は床几から立って、そのつど軍扇(ぐんせん)で受けたものの、その軍扇には刀傷が8つもできていたというのです。

ここでのポイントは、あくまでその武者が謙信らしき武者であること。

『甲陽軍鑑』は合戦後、

「其(その)武者、輝虎(謙信のこと)なりと申候」

しらじらしく、あとになって謙信だとわかったと記しています。『甲陽軍鑑』の作者の作為を感じずにはいられません。

だとしたら、一騎打ちの話は『甲陽軍鑑』の捏造だったのでしょうか。じつは、そうともいいきれないのです。ある”信頼できる人物”が、この両雄一騎打ちについて、有力な手がかりを残してくれているからです……。
(つづく)

信玄と謙信の一騎打ちは史実か?① [川中島の合戦]

長野市の八幡原史跡公園(川中島古戦場)内には、武田信玄と上杉謙信が一騎討ちする銅像があります。

ご存じ、この両雄が死力を尽くした永禄4年(1561)9月の川中島合戦の際の有名なエピソードです。しかし、大将はふつう、本陣の床几にどっかと座っているもの。いかに乱戦とはいえ、疑ってしまいたくなる話です。

北信濃という地域の局地戦にすぎない合戦を一躍有名にしたのは、この両雄一騎討ちの話があるからですが、その真偽を探るべく、まず合戦当日の状況を確認しておきましょう。

9月10日の早朝、信州川中島の大地は深い霧につつまれていました。

ところが、午前7時ごろ、霧が流れ、天気は急に快晴へと転じます。すると、武田軍8000の軍勢のわずか800メートルほど先に、1万の上杉勢が姿を現したのです。

千曲川東岸の妻女山(さいじょざん)に布陣していた上杉軍が、霧深い夜陰に乗じ、ひそかに渡河していたのです。武田の将兵は、

「何(いつ)の間に逆寄(さかよせ)には進みたるぞ」

といって仰天したと史書に記されています。こうして史上名高い川中島合戦の幕が切って落とされます。

最も戦闘の激しかった午前7時から9時ごろまでの2時間に、史書に残る両軍の戦死者数(6633人)が集中したと仮定すると、1万8000のうち、ほぼ4割の将兵が討ち死にした計算となります。

こうして戦国史上空前の乱戦が始まります。それでは、両雄一騎打ちの“ネタ本”となった『甲陽軍鑑』は、そのシーンをどう記しているのでしょうか……。(つづく)
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