軍師・山本勘助は実在したか?② [川中島の合戦]

信玄の軍師・山本勘助が献策した「啄木鳥(きつつき)の戦法」は、敵将の謙信に読まれ、裏をかかれて武田勢は窮地に陥ります。そして、大乱戦の中、勘助も命を落とします。

ただし、それは江戸初期に成立した軍記『甲陽軍鑑』の中での話です。

巷間、その勘助は架空の人物だといわれています。しかし、満更そうとはいいきれない証拠が最近発見されています。それについては後述させていただくとして、まず勘助の活躍が活写される『甲陽軍鑑』について触れておこうと思います。

この軍記は、甲州流軍学の祖・小幡景憲が書いた門人へのテキスト。

甲州流軍学の名を高めるにはヒーローが必要であり、景憲は、このテキスト(『甲陽軍鑑』)を、信玄の重臣・高坂昌信が書いた実録モノだということにして架空の軍師を登場させた――と解釈されています。

その『甲陽軍鑑』に、勘助は築城の名手として、また、「啄木鳥の戦法」などの戦術を縦横無尽に操る希代の軍師として描かれています。

ところが、釧路市の民家に伝わる古文書(『市河文書』)の発見により、2字違いですが、「山本菅介」という信玄の侍大将(重臣クラス)が実在していることが明らかとなりました。ただし、その「菅介」は伝令将校。軍師ではありません。

しかし、こんどは安中市(群馬県)の民家に伝わる古文書の中から、信玄が「山本菅助」という家臣に宛てた書状(手紙)が2通、みつかりました。こんどは1字違い。その山本菅助は軍師だったのでしょうか……。(つづく)

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