軍師・山本勘助は実在したか?① [川中島の合戦]

川中島の合戦の名シーンは、大将どうしの一騎打ちだけではありません。

武田信玄の軍師・山本勘助が考案したとされる「啄木鳥(きつつき)の戦法」も、格調高い頼山陽(江戸時代の学者)の詩となって後世に語り継がれています。

山本勘助といえば、NHK大河ドラマ「風林火山」で俳優の内野聖陽さんが演じた”戦国のヒーロー”ですが、ご存じのとおり、武田方の軍記『甲陽軍鑑』が創作した架空の人物という見方が一般的です。

しかし、本当に架空の人物だとして一蹴していいものなのでしょうか。それを探り出してみたいと思います。まずはじめに、勘助が信玄に献策した「啄木鳥の戦法」についてみていくことにします。ご存じの方も多いと思いますが、しばらくおつきあい下さい。

勘助は信玄に「(2万の軍勢のうち)一万二千、謙信の陣どる西条山(妻女山)へ仕懸」(『甲陽軍鑑』)ように進言します。1万2000の遊軍が明朝午前5時を期して妻女山を奇襲すれば、上杉勢は、

「負け候ても勝ち候ても、(千曲)川を越し、退(の)きべく候」(『同』)

そうやって上杉勢が本国越後へ帰ろうとするところを狙い、ひそかに川を渡った信玄率いる8000の本軍と上杉勢を背後から追う遊軍で「跡先より押しはさみ」(はさみうち)にする作戦でした。

啄木鳥が木を叩き(武田方遊軍の妻女山攻撃を指します)、餌(上杉軍)がその音に釣られて出てくるのを待つところから、「啄木鳥の戦法」と呼ばれています。

しかし、妻女山の謙信は、武田の本陣から慌ただしくたち上る炊飯の煙をみて、勘助の作戦を見破るのです。

上杉軍は信玄より先んじて、9月9日の午後9時ごろ、物音一つたてず、のちに頼山陽が書いたとおり、「鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)」と、霧の中、千曲川を渡河します。

一方、そんなことは知るよしもない信玄は少し遅れて翌10日の明け方、8000の本軍を率いて、千曲川の広瀬の渡しを越えました。

だからこそ、霧が流れ、1万3000(うち3000は後詰)の上杉軍を至近距離の先にとらえた際、武田の将兵は激しく狼狽します。

それから一刻(2時間)、妻女山がもぬけの殻だと知った遊軍1万2000が戦場へ合流し、上杉軍が退却を始めるまでの間、両軍の総大将が互いに太刀打ちしなければならないほどの大乱戦となったのです……。(つづく)

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