信玄と謙信の一騎打ちは史実か?② [川中島の合戦]
両雄一騎打ちの“ネタ本”となった『甲陽軍鑑』は、そのシーンを次のように書いています。
上杉勢の突撃をくらって信玄の本陣が乱れたった、まさにそのとき――。
「萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)きたる武者」が「白手巾(しろてぬぐい)にて、つふり(頭)をつつみ」
月毛(つきげ)の馬に乗って参上したというのです。その武者は、太刀を鞘から抜いて信玄の床几にむかって真一文字に進むと、太刀を振り上げ、
「三刀伐(きり)奉る。信玄公たつて(立って)、軍配団扇にてうけ(受け)なさる。(信玄が)後(のち)みれば、うちは(団扇)に八刀(かたな)瑕(きず)あり」
白頭巾で頭をおおった謙信らしき武者が信玄に3太刀浴びせ、信玄は床几から立って、そのつど軍扇(ぐんせん)で受けたものの、その軍扇には刀傷が8つもできていたというのです。
ここでのポイントは、あくまでその武者が謙信らしき武者であること。
『甲陽軍鑑』は合戦後、
「其(その)武者、輝虎(謙信のこと)なりと申候」
しらじらしく、あとになって謙信だとわかったと記しています。『甲陽軍鑑』の作者の作為を感じずにはいられません。
だとしたら、一騎打ちの話は『甲陽軍鑑』の捏造だったのでしょうか。じつは、そうともいいきれないのです。ある”信頼できる人物”が、この両雄一騎打ちについて、有力な手がかりを残してくれているからです……。
(つづく)
上杉勢の突撃をくらって信玄の本陣が乱れたった、まさにそのとき――。
「萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)きたる武者」が「白手巾(しろてぬぐい)にて、つふり(頭)をつつみ」
月毛(つきげ)の馬に乗って参上したというのです。その武者は、太刀を鞘から抜いて信玄の床几にむかって真一文字に進むと、太刀を振り上げ、
「三刀伐(きり)奉る。信玄公たつて(立って)、軍配団扇にてうけ(受け)なさる。(信玄が)後(のち)みれば、うちは(団扇)に八刀(かたな)瑕(きず)あり」
白頭巾で頭をおおった謙信らしき武者が信玄に3太刀浴びせ、信玄は床几から立って、そのつど軍扇(ぐんせん)で受けたものの、その軍扇には刀傷が8つもできていたというのです。
ここでのポイントは、あくまでその武者が謙信らしき武者であること。
『甲陽軍鑑』は合戦後、
「其(その)武者、輝虎(謙信のこと)なりと申候」
しらじらしく、あとになって謙信だとわかったと記しています。『甲陽軍鑑』の作者の作為を感じずにはいられません。
だとしたら、一騎打ちの話は『甲陽軍鑑』の捏造だったのでしょうか。じつは、そうともいいきれないのです。ある”信頼できる人物”が、この両雄一騎打ちについて、有力な手がかりを残してくれているからです……。
(つづく)
2011-08-15 11:56
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