信玄と謙信の一騎打ちは史実か?① [川中島の合戦]
長野市の八幡原史跡公園(川中島古戦場)内には、武田信玄と上杉謙信が一騎討ちする銅像があります。
ご存じ、この両雄が死力を尽くした永禄4年(1561)9月の川中島合戦の際の有名なエピソードです。しかし、大将はふつう、本陣の床几にどっかと座っているもの。いかに乱戦とはいえ、疑ってしまいたくなる話です。
北信濃という地域の局地戦にすぎない合戦を一躍有名にしたのは、この両雄一騎討ちの話があるからですが、その真偽を探るべく、まず合戦当日の状況を確認しておきましょう。
9月10日の早朝、信州川中島の大地は深い霧につつまれていました。
ところが、午前7時ごろ、霧が流れ、天気は急に快晴へと転じます。すると、武田軍8000の軍勢のわずか800メートルほど先に、1万の上杉勢が姿を現したのです。
千曲川東岸の妻女山(さいじょざん)に布陣していた上杉軍が、霧深い夜陰に乗じ、ひそかに渡河していたのです。武田の将兵は、
「何(いつ)の間に逆寄(さかよせ)には進みたるぞ」
といって仰天したと史書に記されています。こうして史上名高い川中島合戦の幕が切って落とされます。
最も戦闘の激しかった午前7時から9時ごろまでの2時間に、史書に残る両軍の戦死者数(6633人)が集中したと仮定すると、1万8000のうち、ほぼ4割の将兵が討ち死にした計算となります。
こうして戦国史上空前の乱戦が始まります。それでは、両雄一騎打ちの“ネタ本”となった『甲陽軍鑑』は、そのシーンをどう記しているのでしょうか……。(つづく)
ご存じ、この両雄が死力を尽くした永禄4年(1561)9月の川中島合戦の際の有名なエピソードです。しかし、大将はふつう、本陣の床几にどっかと座っているもの。いかに乱戦とはいえ、疑ってしまいたくなる話です。
北信濃という地域の局地戦にすぎない合戦を一躍有名にしたのは、この両雄一騎討ちの話があるからですが、その真偽を探るべく、まず合戦当日の状況を確認しておきましょう。
9月10日の早朝、信州川中島の大地は深い霧につつまれていました。
ところが、午前7時ごろ、霧が流れ、天気は急に快晴へと転じます。すると、武田軍8000の軍勢のわずか800メートルほど先に、1万の上杉勢が姿を現したのです。
千曲川東岸の妻女山(さいじょざん)に布陣していた上杉軍が、霧深い夜陰に乗じ、ひそかに渡河していたのです。武田の将兵は、
「何(いつ)の間に逆寄(さかよせ)には進みたるぞ」
といって仰天したと史書に記されています。こうして史上名高い川中島合戦の幕が切って落とされます。
最も戦闘の激しかった午前7時から9時ごろまでの2時間に、史書に残る両軍の戦死者数(6633人)が集中したと仮定すると、1万8000のうち、ほぼ4割の将兵が討ち死にした計算となります。
こうして戦国史上空前の乱戦が始まります。それでは、両雄一騎打ちの“ネタ本”となった『甲陽軍鑑』は、そのシーンをどう記しているのでしょうか……。(つづく)
2011-08-14 13:03
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