信玄と謙信の一騎打ちは史実か?③ [川中島の合戦]

両雄一騎打ちの有力な手がかりを残してくれた人物。それは、公卿の関白近衛前久でした。

前久と謙信は前々から誼みがあり、前久の娘と謙信は“恋仲”の関係にあったといわれています。川中島の合戦後、その前久が謙信に、

「自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉」

つまり、ご自身で太刀討ちなさるとは比類なき武勇であり、天下の名誉だと、称賛の手紙を書き送っています。おそらく謙信は自慢話のつもりで、「自身太刀討」したという手紙を前久に出していたのでしょう。この文面はその返書にあたります。

したがって、この手紙がしばしば、“両雄太刀討ち説”の証拠として使われているようです。

謙信は信玄とちがい、何事も真一文字に突き進む性格であり、そんな謙信が、自身太刀をとって敵と戦ったことを誇ったとしても不思議ではありません。

しかし、忘れてならないのは、ここでも、「太刀討」の相手が信玄だと、ひと言も書かかれていないこと。文面からは、謙信の「太刀討」の相手が誰かは不明です。謙信が前久に出した手紙には、相手が信玄だと記されていたものの、前久が返書で省略したのでしょうか。

そう考えるほうが不自然だと思います。なぜなら、いかに戦国時代といえども、大将どうしの一騎打ちはそうある話ではないからです。相手が本当に敵将の信玄だったのなら、返書であっても、前久は“信玄と太刀討に及ばるる段”と記し、省略しないはずです。

そうしなかったのは、謙信の手紙に、そんな事実は記されていなかったからだと思います。

乱戦のなか、大将の謙信みずから太刀をとり、武田の将兵と戦っていたのは事実でしょう。ただ問題は、その中に信玄が含まれていたかどうかということです。

ここで上杉方の史料に目を向けてみましょう。『上杉家御年譜』によると、本陣を崩された信玄は、千曲川にそそぐ御幣川(おんべいがわ)のあたりまで逃げのびたことになっています。この内容を信じるなら、上杉勢に本陣を蹴散らされ、信玄は雨宮の渡しで千曲川を渡り、本国の甲斐方面へ逃走しようとする魂胆がみえみえです。

それをみて、上杉勢は御幣川の下流へと馬足を速めます。そして、武田方の兵が弓矢を捨ててこぞって逃走するなか、信玄を猛追した武将がいたのです……。(つづく)


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