織田信長 ブログトップ
前の10件 | -

歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」(最終回) [織田信長]

天正10年(1582)5月8日、羽柴秀吉は備中高松城(岡山市)を包囲し、築堤と足守川の流れを堰き止めることによって、高松城を水没させようとします。世にいう「高松城の水攻め」です。そこへ、毛利輝元が高松城の後詰めのため、その後方20キロ地点に位置する猿掛城(倉敷市ほか)まで大軍を率いてきます。

秀吉からその情報を伝えられた信長は「間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候」(『信長公記』)といって喜びました。毛利を一気に葬り去ろうとしていた信長にとって、輝元がのこのこと後詰めのために本軍を率いて出て来たのは、幸運以外の何ものでもありません。

このチャンスを逃さず、信長は京を6月4日に出陣する予定でした。そんな多忙な時期に、なぜ信長は安土からわざわざ大量の名物茶器を運ばせ、しかも出陣の前日、のんきに本能寺で茶会を催そうとしたのでしょうか。そこには何か明確な目的があったはずです。

筆者の「本能寺の変・信長仕掛け人説」に対して否定的な論を展開される諸氏はこぞって、「この多忙な時期に信長が陰謀を仕掛けるはずがない」と仰います。しかしながら、その論を正当化するためには、6月3日の「本能寺茶会」の目的を示さなければなりません。

多忙な時期にわざわざ茶会を催す理由。むろん、その日、大勢の公家が招待されていたはずです。いったい、信長はそこで何をしようとしていたのでしょうか。筆者は1日に信長が一部の公家らと激論を交わした事実と重なりあわせ(詳細は省きますが、むろん、ほかの状況証拠もあります)、「クーデター」という推論を導き出しました。

しかし、筆者の推論が絶対だといっているわけではありません。ほかに答えがあるかもしれません。ぜひ皆さんも、その答えを見つけ出して下さい。

次回は、本能寺の変の次にくる歴史的大事件――秀吉の中国大返しの謎に迫りたいと思います。

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」⑦ [織田信長]

6月1日、安土から上洛した信長を、大勢の公卿らが本能寺へご機嫌伺いのために伺候します。そのひとり、勅使として派遣された勧修寺晴豊の日記(『天正十年夏記』)には、こう記されています。

「一日 天晴。今日信長へ御使、甘露寺ト余(晴豊)両人。両御所ヨリ参じ候。そのほか公家衆各礼ニ被出候。よって村井(京都所司代)ニ申す所ニ信長各見参候。音信(進物)ともあるまじき候由候て各不出候。各出候て物語」

京都所司代の村井貞勝からご機嫌うかがいの公卿らに、まず「音信ともあるまじき候」(=挨拶の手土産はご遠慮願いたい)ということが事前に伝えられていることがわかります。形式にこだわらない信長らしい行為ですが、別の味方をすると、信長は「進物などでごまかされないぞ」という強い姿勢を打ち出したともいえます。

ところで、本能寺に公卿らが揃ったところで茶と菓子が振る舞われています。しかし、これはただ茶と菓子が出されただけであって、茶会とはいえません。問題は茶を啜りながら雑談となったあと、突然、場の雰囲気が変わり、

「いわれさる事なり。これ信長むりなる事候」(『天正十年夏記』)

と、公卿らと信長の間で激論が交わされたことです。晴豊はその理由を「改暦問題」(朝廷で使う暦を「京暦」から「三島暦」に変更すること)だとしていますが、それだけではなかったと思います。信長悲願の「安土遷都」の問題を話題になったのではないでしょうか。

この信長と公卿らが激論を交わしたという事実に、6月3日、信長が本能寺で茶会を催す予定だったという史実を重ね合わせると、ある仮説が成り立ちます。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。

歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」⑥ [織田信長]

「本能寺茶会」の存在を示す根拠は、フロイスの書信(『日本年報』)ばかりではありません。

京に滞在中の博多の豪商・嶋井宗室へ宛てた信長の手紙に、本能寺茶会で披露する茶道具38種類が記載されています(『仙茶集』)。信長が安土から本能寺へ運ばせた名物茶器のリストです。

つまり、本能寺でこういう名物茶器をお見せしましょうという信長からの招待状でした。

その中には、“戦国の梟雄”と呼ばれる松永久秀が信長に降る際に献じた名物の茶入「九十九茄子」(現・静嘉堂美術館蔵=本能寺の焼け跡から奇跡的に見つけ出されました)も含まれ、当時の1級品がズラリ並んでいます。

さしずめ、“国宝級”の信長コレクションといったところですが、その目録(リスト)の年月と日付が「午(うま)」の年、すなわち天正10年(1582)の「六月一日」になっています。

このため「本能寺茶会」は6月1日に開かれたとする説もありますが、それはこれまでみてきたとおり、大いなる誤解というべきでしょう。

その理由は、道具披露の茶会当日に招待状が送られるとは考えにくいこと。

宗室へ宛てた手紙が披露する茶道具の目録であると同時に茶会への招待状を兼ねているのは明らかです。今日の常識からいっても、イベントの当日に招待状が届けられるとは考えられないからです。

ただし、1日に大勢の公卿が”信長詣で”のため、本能寺に参集しているのは事実です。それを茶会と勘違いしたところに「6月1日の本能寺茶会説」の誤りがあったようです。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。



歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」⑤ [織田信長]

家康は堺から京へのぼる途中、信長が本能寺で討たれたという知らせを受け、伊賀越えで本国へ逃げ帰ります。彼が京へ向ったのは、「本能寺茶会」に招かれていたからに他なりません。

すなわち、本能寺の変の当日の家康の行動と信長が安土から大量に名物茶器を本能寺へ運び入れ、その披露のための茶会に家康を招待していたというフロイスの書信(本国へ送った『日本年報』)から、「本能寺茶会」があったという史実は、もはや否定することはできないでしょう。

ところが、これまで不思議とその事実は無視されてきたように思います。

近著(歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」①と②の写真参照)は、「6月3日の本能寺茶会」という歴史に埋もれた重要な史実をいまいちど歴史の表舞台へ登場させたい思いで書き上げたものです。

それでは次に、本能寺で家康を招待した茶会が3日に開かれる予定だったことを確認しておこうと思います。

まず家康が茶会に出席するため2日に京へ向ったのですから、2日以降であることはたしかです。

一方、武家伝奏(取次役)の勧修寺晴豊の日記に、

「西国手つかい四日出陣申すべく候」

とあり、信長は4日に西国の毛利勢を討つべく本能寺を発つ予定だったと明記されています。

そうなると、茶会は2日か3日。ただ、家康が堺から移動した日に茶会があったと考えると、かなりタイトなスケジュールになります。1日か2日余裕をみて京入りするのが常識的な考えだと思います。

以上のことから「本能寺茶会」は3日に催される予定だったと、考えざるをえません。このほかにも、まだ「本能寺茶会」の存在を示す証拠があります…。(つづく)

写真は、茶会がおこなわれる予定だった本能寺跡(現在の本能寺は焼失後、別の場所で再建されたものです)
元本能寺①.jpg

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」④ [織田信長]

家康主従は天正10年(1582)6月2日、堺から京へ向います。そして、その道すがら、一行が河内の飯盛山(四条畷市)まで来たとき、本能寺での凶報に接します。

そのときの状況は、京の豪商茶屋四郎次郎(初代)が書き留めた記録(『茶屋由緒書』)に詳しく書かれています。

「御先手本多平八郎忠勝江(へ)行合、信長公御生害之旨、密ニ申達候付、平八郎、四郎次郎共ニ乗込ミ、飯盛山辺ニ而(て)目見仕候所、(家康が)両人之様子御覧、非唯事と被思召」

家康の重臣本多平八郎忠勝が家康一行に先んじて堺を発ち、京へ向っています。そしてその途中、「信長公御生害」の事実を、京から逆に堺方面へ駈けつけた四郎次郎から告げられたのです。

それを聞いて平八郎は、顔色を一変させたのでしょう。四郎次郎と2人、すぐさま家康のもとへ急行しますが、家康はその2人の様子を遠目で見て「ただ事にあらず」と感じたというのです。

そこで家康は京へは入らず、有名な「神君伊賀越え」ルートで本国へ逃げ帰ります。だとしたら、もし本能寺の変が起きなければ、家康主従はそのまま2日のうちに京へ入っていたはずです。

その目的はもうおわかりだと思います。南蛮人宣教師のフロイスが書き残しているとおり、「三河の国主(家康)」は、信長が名物茶器を安土から運びこませて披露することになっていた「本能寺茶会」に招かれていたからです…。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。



歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」③ [織田信長]

宣教師フロイスが本国へ送った報告書(『日本年報』)の中で「信長が都に来た時(筆者註・本能寺入りを指す)、これが最後になったが、三河の国主やその他の諸侯に見せるためほとんどすべての道具を携えて来た」と書かれている部分が重要だと思います。

三河の国主というのはもちろん、徳川家康のことです。つまり、信長は「本能寺茶会」の客として家康を招いていたのです。そこで本能寺の変が起きた6月2日以降の家康の足取りを探ってみましょう。

家康主従は安土で信長に饗応されたあと、京・大坂をめぐり、5月29日には堺入りしています。この年、29日の次は6月1日。その1日には、堺の豪商で茶人でもある津田宗及らから接待を受けています。 そして、変の当日、本願寺役人の日記(『宇野水主日記』)によって、われわれは家康の動きを知ることができます。

「二日、朝徳川殿上洛、火急ニ上洛之儀□(判読不明)、上様安土より、二十九日ニ御京上之由アリテ、それにつき、ふたふたと上洛由候也」

本能寺の変は2日の払暁(午前五時ごろ)に起きています。家康主従が2日の朝、堺から京へむかって発ったころ、すでに信長は光秀に討ち取られていたはずです。今日のような情報伝達手段がない時代に、2日の朝、彼らが京の変事を堺で知ったとは考えられません。

もし知っていたとしたら、明智勢で満ち溢れる京へ、わずかな供廻りで入るのは自殺行為でもあります。このとき家康主従は何も知らなかったのです。それでは、家康は何の目的があって、堺から京へ向かったのでしょうか。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。




歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」② [織田信長]

信長は6月3日、公卿らを茶会に招き、その会場である本能寺を大軍勢で包囲させることとは別に、光秀にもうひとつ、重要な任務を与えていましたが、それについてはここでは触れません。ご興味ある方はぜひとも著書(下の写真)をご覧ください。

それではまず、「本能寺茶会」がいかに大がかりなものであったか、南蛮人宣教師の『イエズス会日本年報』より拾ってみたいと思います。以下、関係する部分を引用します。

「(信長が茶の湯の)道具を六十以上持っているというのは確かなことである。この件をよく知る日本人修道士ヴィセンテが私(筆者註・宣教師のフロイス)に断言したところでは、その内二つのみで三万五千クルザード以上に値した。これもまた失われたのは、信長が都に来た時(筆者註・本能寺入りを指す)、これが最後になったが、三河の国主やその他の諸侯に見せるためほとんどすべての道具を携えて来たからである」

信長が茶道具のコレクターであったのは有名な話です。宣教師が驚くほど高価な茶道具を含め、信長は安土から本能寺へごっそり、そのコレクションを運びこませていたのです。当時、茶会で名物茶器を客に披露するのは常識でした。しかし、60以上の茶道具がズラリと揃った茶会となると話は別。さぞや盛大なものとなるはずだったでしょう。

次に、その「本能寺茶会」が6月3日におこなわれる予定だったとなぜいえるのか、それについてご説明したいと思います。これまでの歴史は、その日に本能寺で茶会が開かれたという事実を見落とすか、あるいは意図して無視したとしか思えません。

茶会は6月1日だったという説もあります。しかし、どう考えても茶会は本能寺の変の翌日に開かれる予定だったと考えるしかないのです…。(つづく)

新書表紙.jpg

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」① [織田信長]

織田信長にとって、天正10年(1582)6月3日という日は永遠に訪れない日となってしまいました。その前日、明智光秀によって弑逆されるからです。

しかし、本能寺の変の真相を考えるにあたり、3日の「本能寺茶会」は重要なイベントとなります。ところが、これまで、この”世紀のイベント”に注意を払った歴史家はほとんどいなかったのではないでしょうか。

それでは、6月3日の「本能寺茶会」が何の目的で催され、そこでどのようなことが起きたと考えられるのでしょうか。まず、著書(下の写真)のエピローグから関係する部分を抜粋してみます。

《光秀に与えられた命は、六月三日、まず茶会が開かれている本能寺を大軍勢で取り囲むことであった。

名目は、西国へむかう一万三〇〇〇の軍勢を信長の閲兵に供するためである。おそらく、明智勢は午後三時ごろ、本能寺へ到着する予定だったのではあるまいか。

『言経卿記』(天正七年五月六日条)には、午後二時ごろからはじまり、そのまま夕飯になった茶会のことが記されているが、六月三日の茶会は、安土からわざわざ茶器の名物を運ばせているほどの大がかりなものであり、一万三〇〇〇の明智勢が本能寺を包囲したころ、その中ではすでに、前関白近衛前久ら朝廷の首脳が本能寺茶会に顔を揃えていたはず。

本能寺の門前に居並ぶ大軍勢の威容を前に、信長は、陰謀が半ば成功したことに笑みを浮かべていたであろう。当然、閲兵する信長の傍らには前久はじめ、朝廷首脳が付き添っている。彼ら公卿の多くはそのとき初めて、茶会にことよせた信長の軍事クーデターであったことを知る。

むろん、前久や武家伝奏の勧修寺晴豊は、薄々この信長の野望に気づいていただろうが、その予感が的中したことに臍を噛んだかもしれない。

やがて信長は茶席の場に戻ると、当然のように「改暦」と「安土遷都」の許可を朝廷首脳に求める。彼らに否やはない。というより、拒絶という選択肢は存在しないのである。これが軍事クーデターである以上、その申し出を却下すれば、命の保証がないことは、彼らもよくわかっている》
(つづく)

新書表紙.jpg

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。

信長の素性(最終回) [織田信長]

織田氏を称することになる初代・常昌(常任)のルーツをもう少し遡ってみましょう。

常昌は、忌部親真という人の五世の子孫といわれています。そして、さらに親真のルーツをたどってみると、たしかに平重盛に至ります。

『剣明神(神社)縁起』に、

「重盛公の嫡子親真は織田(剣)神社の養子と成る」

と記されているからです。それゆえ、親真の子孫である信長は「平氏」ということになります。もっというと、平重盛は、来年のNHK大河ドラマの主人公・平清盛の嫡男ですから、信長は初めて武家政権を開いた武将の血を受け継いでいることにもなります。

しかし、結果からいうと、その縁起の内容は史実と異なるようです。


実際には、伊勢の平氏一族である平基度(もとのり)という武将の娘が忌部親澄という人に嫁ぎ、やがて親真が生まれたというのです。母系は平氏の末葉に連なっているとしても、父系を中心とする系図の流れからいうと、あくまで織田氏は忌部氏です。

したがって『織田町史』は、そこから織田氏が平氏だという誤った伝承が語り継がれてきたとしています。こうして、実際のところは忌部氏でありながら、剣神社の伝承を根拠に信長は平氏を称していたのです。

これで信長が平氏を称し、「源平交代思想」にもとづいて、「安土遷都」後に征夷大将軍になろうとした背景がわかりました。さて、問題は6月3日に本当に「本能寺茶会」がおこなわれたどうかです。その茶会は、信長が「安土遷都」を認めさせるための”事実上のクーデター”であったと考えています。

次回以降、そのことを証明していきたいと思います。

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


信長の素性② [織田信長]

まだ大和朝廷が成立する前、大和盆地の西端にあった”葛城王国”で祭祀をつかさどっていたのが忌部氏でした。

“葛城王国”はやがて大和朝廷に滅ぼされ、「倭の武王」で有名な雄略天皇の時代に忌部氏は故郷の葛城地方を追われて、全国へ散ったと考えられます。ちなみに京都盆地へ移住した一族は鴨族と呼ばれ、ご承知のとおり、いまの上賀茂神社や下鴨神社はその鴨族に関係する神社となっています。

つまり、忌部一族の鴨族は、天孫(てんそん)族である天皇家がいまの京都に都を遷す(平安遷都)よりずっと前に住んでいた“先住族”ということになります。

前号で書いたとおり、信長の先祖(忌部常昌あるいは常任)も越前に土着し、剣神社の神主兼地頭として織田荘を支配してきました。

信長が天皇を超越しようとしたという野望については「信長が本能寺で死ななかったら」で述べさせていただきました。もし信長が、自分の先祖が天皇家によって故郷を追われたという歴史を知っていたとしたらどうでしょう。自身の野望と一族のルーツとが関係していたのかもしれません。

もちろん、そのことを証明する史料は存在しません。ただ、信長自身、織田の家が剣神社の神主の家系だったことは意識していたようです。

朝倉義景を討って越前を平定した信長は、越前の支配を家老の柴田勝家に委ねますが、天正3年(1575)、その勝家が剣神社へ出した書状に、

「当社(剣神社)の儀は、殿様(信長)御氏神の儀に候えば」

とあります。つまり、織田家のルーツにあたる越前剣神社に諸役(年貢など)免除のお墨付きを与えているのです。

前号で述べたとおり、信長の先祖の忌部常昌もしくは忌部常任という人は、越前守護・斯波義重の被官になりますが、その義重はその後、尾張の守護職もたまわり、その際、常昌(常任)が義重の供として尾張へ入部。そのころから出身地の名をとり、「織田氏」を称したと考えられます。

つまり、信長の先祖は「忌部」であり、「平」ではありません。ただ、剣神社の縁起によると、信長は平氏になってしまうのです。そこにはどういうカラクリが隠されていたのでしょうか。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


前の10件 | - 織田信長 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。