歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」② [織田信長]

信長は6月3日、公卿らを茶会に招き、その会場である本能寺を大軍勢で包囲させることとは別に、光秀にもうひとつ、重要な任務を与えていましたが、それについてはここでは触れません。ご興味ある方はぜひとも著書(下の写真)をご覧ください。

それではまず、「本能寺茶会」がいかに大がかりなものであったか、南蛮人宣教師の『イエズス会日本年報』より拾ってみたいと思います。以下、関係する部分を引用します。

「(信長が茶の湯の)道具を六十以上持っているというのは確かなことである。この件をよく知る日本人修道士ヴィセンテが私(筆者註・宣教師のフロイス)に断言したところでは、その内二つのみで三万五千クルザード以上に値した。これもまた失われたのは、信長が都に来た時(筆者註・本能寺入りを指す)、これが最後になったが、三河の国主やその他の諸侯に見せるためほとんどすべての道具を携えて来たからである」

信長が茶道具のコレクターであったのは有名な話です。宣教師が驚くほど高価な茶道具を含め、信長は安土から本能寺へごっそり、そのコレクションを運びこませていたのです。当時、茶会で名物茶器を客に披露するのは常識でした。しかし、60以上の茶道具がズラリと揃った茶会となると話は別。さぞや盛大なものとなるはずだったでしょう。

次に、その「本能寺茶会」が6月3日におこなわれる予定だったとなぜいえるのか、それについてご説明したいと思います。これまでの歴史は、その日に本能寺で茶会が開かれたという事実を見落とすか、あるいは意図して無視したとしか思えません。

茶会は6月1日だったという説もあります。しかし、どう考えても茶会は本能寺の変の翌日に開かれる予定だったと考えるしかないのです…。(つづく)

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