歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」① [織田信長]

織田信長にとって、天正10年(1582)6月3日という日は永遠に訪れない日となってしまいました。その前日、明智光秀によって弑逆されるからです。

しかし、本能寺の変の真相を考えるにあたり、3日の「本能寺茶会」は重要なイベントとなります。ところが、これまで、この”世紀のイベント”に注意を払った歴史家はほとんどいなかったのではないでしょうか。

それでは、6月3日の「本能寺茶会」が何の目的で催され、そこでどのようなことが起きたと考えられるのでしょうか。まず、著書(下の写真)のエピローグから関係する部分を抜粋してみます。

《光秀に与えられた命は、六月三日、まず茶会が開かれている本能寺を大軍勢で取り囲むことであった。

名目は、西国へむかう一万三〇〇〇の軍勢を信長の閲兵に供するためである。おそらく、明智勢は午後三時ごろ、本能寺へ到着する予定だったのではあるまいか。

『言経卿記』(天正七年五月六日条)には、午後二時ごろからはじまり、そのまま夕飯になった茶会のことが記されているが、六月三日の茶会は、安土からわざわざ茶器の名物を運ばせているほどの大がかりなものであり、一万三〇〇〇の明智勢が本能寺を包囲したころ、その中ではすでに、前関白近衛前久ら朝廷の首脳が本能寺茶会に顔を揃えていたはず。

本能寺の門前に居並ぶ大軍勢の威容を前に、信長は、陰謀が半ば成功したことに笑みを浮かべていたであろう。当然、閲兵する信長の傍らには前久はじめ、朝廷首脳が付き添っている。彼ら公卿の多くはそのとき初めて、茶会にことよせた信長の軍事クーデターであったことを知る。

むろん、前久や武家伝奏の勧修寺晴豊は、薄々この信長の野望に気づいていただろうが、その予感が的中したことに臍を噛んだかもしれない。

やがて信長は茶席の場に戻ると、当然のように「改暦」と「安土遷都」の許可を朝廷首脳に求める。彼らに否やはない。というより、拒絶という選択肢は存在しないのである。これが軍事クーデターである以上、その申し出を却下すれば、命の保証がないことは、彼らもよくわかっている》
(つづく)

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