歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」③ [織田信長]

宣教師フロイスが本国へ送った報告書(『日本年報』)の中で「信長が都に来た時(筆者註・本能寺入りを指す)、これが最後になったが、三河の国主やその他の諸侯に見せるためほとんどすべての道具を携えて来た」と書かれている部分が重要だと思います。

三河の国主というのはもちろん、徳川家康のことです。つまり、信長は「本能寺茶会」の客として家康を招いていたのです。そこで本能寺の変が起きた6月2日以降の家康の足取りを探ってみましょう。

家康主従は安土で信長に饗応されたあと、京・大坂をめぐり、5月29日には堺入りしています。この年、29日の次は6月1日。その1日には、堺の豪商で茶人でもある津田宗及らから接待を受けています。 そして、変の当日、本願寺役人の日記(『宇野水主日記』)によって、われわれは家康の動きを知ることができます。

「二日、朝徳川殿上洛、火急ニ上洛之儀□(判読不明)、上様安土より、二十九日ニ御京上之由アリテ、それにつき、ふたふたと上洛由候也」

本能寺の変は2日の払暁(午前五時ごろ)に起きています。家康主従が2日の朝、堺から京へむかって発ったころ、すでに信長は光秀に討ち取られていたはずです。今日のような情報伝達手段がない時代に、2日の朝、彼らが京の変事を堺で知ったとは考えられません。

もし知っていたとしたら、明智勢で満ち溢れる京へ、わずかな供廻りで入るのは自殺行為でもあります。このとき家康主従は何も知らなかったのです。それでは、家康は何の目的があって、堺から京へ向かったのでしょうか。(つづく)

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