歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」④ [織田信長]

家康主従は天正10年(1582)6月2日、堺から京へ向います。そして、その道すがら、一行が河内の飯盛山(四条畷市)まで来たとき、本能寺での凶報に接します。

そのときの状況は、京の豪商茶屋四郎次郎(初代)が書き留めた記録(『茶屋由緒書』)に詳しく書かれています。

「御先手本多平八郎忠勝江(へ)行合、信長公御生害之旨、密ニ申達候付、平八郎、四郎次郎共ニ乗込ミ、飯盛山辺ニ而(て)目見仕候所、(家康が)両人之様子御覧、非唯事と被思召」

家康の重臣本多平八郎忠勝が家康一行に先んじて堺を発ち、京へ向っています。そしてその途中、「信長公御生害」の事実を、京から逆に堺方面へ駈けつけた四郎次郎から告げられたのです。

それを聞いて平八郎は、顔色を一変させたのでしょう。四郎次郎と2人、すぐさま家康のもとへ急行しますが、家康はその2人の様子を遠目で見て「ただ事にあらず」と感じたというのです。

そこで家康は京へは入らず、有名な「神君伊賀越え」ルートで本国へ逃げ帰ります。だとしたら、もし本能寺の変が起きなければ、家康主従はそのまま2日のうちに京へ入っていたはずです。

その目的はもうおわかりだと思います。南蛮人宣教師のフロイスが書き残しているとおり、「三河の国主(家康)」は、信長が名物茶器を安土から運びこませて披露することになっていた「本能寺茶会」に招かれていたからです…。(つづく)

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