歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」⑤ [織田信長]

家康は堺から京へのぼる途中、信長が本能寺で討たれたという知らせを受け、伊賀越えで本国へ逃げ帰ります。彼が京へ向ったのは、「本能寺茶会」に招かれていたからに他なりません。

すなわち、本能寺の変の当日の家康の行動と信長が安土から大量に名物茶器を本能寺へ運び入れ、その披露のための茶会に家康を招待していたというフロイスの書信(本国へ送った『日本年報』)から、「本能寺茶会」があったという史実は、もはや否定することはできないでしょう。

ところが、これまで不思議とその事実は無視されてきたように思います。

近著(歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」①と②の写真参照)は、「6月3日の本能寺茶会」という歴史に埋もれた重要な史実をいまいちど歴史の表舞台へ登場させたい思いで書き上げたものです。

それでは次に、本能寺で家康を招待した茶会が3日に開かれる予定だったことを確認しておこうと思います。

まず家康が茶会に出席するため2日に京へ向ったのですから、2日以降であることはたしかです。

一方、武家伝奏(取次役)の勧修寺晴豊の日記に、

「西国手つかい四日出陣申すべく候」

とあり、信長は4日に西国の毛利勢を討つべく本能寺を発つ予定だったと明記されています。

そうなると、茶会は2日か3日。ただ、家康が堺から移動した日に茶会があったと考えると、かなりタイトなスケジュールになります。1日か2日余裕をみて京入りするのが常識的な考えだと思います。

以上のことから「本能寺茶会」は3日に催される予定だったと、考えざるをえません。このほかにも、まだ「本能寺茶会」の存在を示す証拠があります…。(つづく)

写真は、茶会がおこなわれる予定だった本能寺跡(現在の本能寺は焼失後、別の場所で再建されたものです)
元本能寺①.jpg

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