信長の素性① [織田信長]

織田信長は平氏を称していました。本当でしょうか。

そのルーツを辿ってみたいと思います。

町村合併で越前町となったものの、かつて福井県西部の丹生郡(にゅうぐん)のほぼ中央に織田町という町がありました。織田盆地の中心にあたり、中世の「織田荘」があったところです。信長の織田家はここの出身です。

この織田荘に剣(つるぎ)神社という平安時代に創建された由緒を持つ古社があります。鎌倉時代、その剣神社の神主で織田荘の地頭だった忌部(いんべ)氏という一族がいて、その忌部氏が信長の先祖にあたります。

その忌部氏というのは、祭祀をおこなう古代の一族であり、大和朝廷が成立する前、大和盆地の西端にあたる葛城山の麓あたりにいましたが、その後全国へ散らばります。信長の先祖も、越前織田で神主としてその地に土着したのでしょう。

織田氏の初代は常昌あるいは常任という人。一説によると、越前の守護だった斯波義重(室町幕府の3代将軍足利義満に仕えていた幕府の重鎮)が剣神社に参詣した際、神主の子が立派な体格をしていたため、気に入って居城する北ノ庄(福井市)へ連れ帰り、家臣にしたといいます。

その忌部氏と平氏はどう関係するのでしょうか?(つづく)

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信長が本能寺で死ななかったら(最終回) [織田信長]

信長が本能寺で死ななければ、翌日の「本能寺茶会」で「安土遷都」をゴリ押し――誠仁(さねひと)親王の即位と同時に都を安土へ遷し、将軍宣下を受けて「安土幕府」を開いていたと思います。

ただ、歴史ファンの皆さんはここで疑問をお持ちになるのではないでしょうか。

「源氏でなければ征夷大将軍になれない」という歴史の常識があるためです。信長は源氏の生まれではありません。しかし、よくよく過去を紐解いてゆくと、必ずしも源氏でなければ将軍になれないわけではないことがわかります。

たしかに、それぞれ鎌倉幕府と室町幕府を開いた源頼朝と足利尊氏は源氏の出。しかし、鎌倉幕府の将軍も3代実朝までは源氏の血流を受け継いだものの、実朝が暗殺された以降、宮家や摂関家から将軍を迎え、最後の将軍(9代将軍)は守邦親王という皇族関係者でした。

したがって、信長が源氏でないからといって将軍職に就けないことはありません。

当時、易姓革命(源平交代思想)という考え方があったとされ、源氏である将軍足利義昭が京を追われたあとだから、次は平氏が政権の座に就く番。はじめ藤原氏を称していた信長は後年、平氏を名乗ります。それも、将軍職へ就任するための布石だったのでしょう。

さて、それでは最後にひとつ確認しておくことがあります。

本当に信長は平氏だったのでしょうか。次回は信長のルーツを探ってみたいと思います。

下の写真は、信長が幕府を開く予定だった安土城の大手道(撮影が冬のため、雪がつもっています)
安土城②大手道.jpg

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信長が本能寺で死ななかったら④ [織田信長]

信長は6月3日、京の本能寺で茶会を開き、朝廷主要メンバーの公卿らを前に重大な決定を迫ろうとしていた――と考えています。

その”重大な決定”が「安土遷都」だったのだと思います。安土城の天守閣は信長の常御殿(つねごてん)。その眼下に、本丸御殿がありました。

問題はその本丸御殿の主(あるじ)です。1999年度から安土城で発掘調査がおこなわれ、その結果、本丸御殿の柱間は国内最大級であることがわかり、御所の清涼殿(天皇が日常の生活をおくる御殿)と紫宸殿(天皇が儀礼をおこなう御殿)を模していることもほぼ明らかになっています。

つまり、この本丸御殿の主は天皇であり、信長は正親町(おおぎまち)天皇が誠仁(さねひと)親王(信長によって事実上、二条御所に幽閉されている)に譲位したあと、この安土城内の本丸御殿に親王(新天皇)の御座所を遷すことを考えていたのでしょう。

信長は、既存の武家政権と同じく天皇を奉戴しつつも、天守閣の眼下に、天皇の御座所(御殿)をもうけ、ビジュアル的に誰が見ても一目瞭然――文字どおり、天皇の“上”に君臨する君主の座を目指したのでしょう。

この野望のためには、6月3日以降に予定される「安土遷都」にタイミングを合わせ、将軍宣下を受ける必要があります。だから、5月初めの時点では、朝廷の意志を確認しておくだけでよかったのです。(つづく)

安土城天守閣(模型)より下を見下ろす信長
安土城模型⑤.jpg

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信長が本能寺で死ななかったら③ [織田信長]

勅使が安土へ下向し、信長が征夷大将軍宣下を受けるという話はトントン拍子に進んでいるようにみえます。

ところが、5月6日以降、それに関する話は史料上確認できなくなってしまいます。つまり、将軍就任と「織田幕府」開創の話はその後、立ち消えになったということなのでしょう。その理由は何だったのでしょうか。

まず考えられる理由は、そのほぼ1ケ月後の6月2日、信長が本能寺で憤死すること。将軍になる本人が死んでしまったのですから、話が立ち消えになるのは当然といえます。ただ、若干疑問が残らないわけではありません。

信長が将軍になり、幕府を開く野望を秘めていたのなら、なぜ武家伝奏の勧修寺晴豊から諮問された時点で即答しなかったのでしょうか。本能寺の変が起きる1ケ月の間に、信長が将軍になり、居城のある安土で幕府を開いていてもおかしくはありません。

勅使が安土へ下向までしたのですから、すぐさま将軍宣下を受けるのが、むしろ自然だと思います。なぜ、話が急に尻すぼみになったのでしょう。

信長としては、勅使下向により、将軍職宣下はいつでも受けられるという事実を確認しておくだけで十分だったのだと思います。

信長は6月3日に予定する「本能寺茶会」で、”ある要求”を朝廷に突きつける予定でした。その実現と同時に将軍職に就き、安土で「織田幕府」を開く考えだったのだと思います。

つまり、信長の野望実現は6月3日になってから――その準備として、信長は将軍職宣下に対する朝廷の意志を確認しておきたかったのでしょう。

「本能寺茶会」については次のシリーズで詳細に述べたいと思いますが、まずここでは、信長が朝廷につきつけようとしていた”ある要求”について考えてみようと思います。(つづく)

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信長が本能寺で死ななかったら② [織田信長]

信長が生きていたとしても、その構想どおり”シナ出兵計画”が現実のものとなっていたかどうか、定かではありません。

もう少し現実的に“信長の野望”を探ってみましょう。

天正10年(1582)、信長が宿敵・武田氏を滅ぼし、安土(滋賀県近江八幡市)へ凱旋した4日後のことです。

朝廷の武家取次役である勧修寺晴豊が、信長の家臣・村井貞勝(京都所司代)の邸に招かれ、

「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然(しかるべく)候」(『天正十年夏記』)

という信長の意向が朝廷側に伝えられます。

これを「三職推任(さんしきすいにん)問題」といい、戦国史の論点のひとつになっていますが、信長の部下と朝廷の武家取次役が、信長の任官問題について話し合っていたのは事実です。

推任というのは、上位の者の推挙によって官位につくことをいい、信長が任官する官職候補として、「太政大臣・関白・将軍」の三職が挙げられました。

それでは、信長がこの三職のうち、どの官位を望んでいたのでしょうか。「関白」はいわゆる摂関家(藤原氏)が世襲しており、信長が摂関家の誰かの養子や猶子にならなければなりません。のちに豊臣秀吉がその手を使い、関白に就任していますが、信長が望んだのは「太政大臣」だったという説もあります。

ただ、武家で太政大臣に就いたのは平清盛や足利義満とごく少数です。現実問題として信長は、征夷大将軍の職を望んだのではないでしょうか。朝廷も、征夷大将軍の職を与えるつもりだったのだと思います。

やがて勅使が安土へ下向するという具合に話はトントン拍子に進み、信長は、側近の森蘭丸を晴豊のところへ遣わします。そのとき晴豊は、

「関東打はたされ、珍重(ちんちょう)候間、将軍ニなさるへきよしと申候」(『天正十年夏記』)

といっています。晴豊が「関東(武田)を討ち果たされ、これほどめでたいことはない。(三職のうち)将軍に就くのがよいと考えます」と蘭丸に伝えたのです。

しかし、将軍就任と「織田幕府」開創の話はその後、立ち消えになります。その理由は何だったのでしょうか。(つづく)

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信長が本能寺で死ななかったら① [織田信長]

本能寺の変で織田信長が死ななかったら、その後の歴史はどう変わっていたのでしょうか。歴史ファンなら、いちどは空想したことのあるテーマだと思います。

このテーマについて、史料に基づきアレコレ考えてみたいと思います。

信長死後の天正10年(1582年)11月5日、宣教師ルイス・フロイスが同日付の「日本年報」で信長の構想を本国へ報告しています。

信長は西国の毛利勢を討ち果たすために安土を発ち、その途中、京の本能寺で明智光秀の手にかかり、殺されてしまいますが、フロイスはこう綴っています。

「(信長は)毛利を征服し終えて日本の全六十六カ国の絶対君主になったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた」

信長は日本平定どころか、朝鮮・中国と東アジアを統一する野望を抱いていたというのです。

この“亡き上様(信長)”の遺志を引き継いだのが豊臣秀吉であり、それが文禄・慶長の役(朝鮮出兵)という形になって実現したのだと思います。

信長が本能寺で死ななかったら、信長の手で朝鮮さらには、その先のシナ出兵がおこなわれていた可能性はあると思います。ただし、フロイスの報告書以外に、信長の“シナ出兵計画”について具体的に書かれた史料はなく、いまとなっては信長の真意を確認する術はありません。

次に、もう少し現実的に“信長の野望”を探ってみましょう。(つづく)

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桶狭間の謎と真相(最終回) [織田信長]

桶狭間の合戦をめぐる最後の謎は、信長の家臣梁田政綱(出羽守)の活躍に関するものです。

大日本帝国陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』によると、政綱は、沓懸(豊明市)方面へ派遣していた間諜(スパイ)の情報によって、義元が田楽狭間で休息していることを知り、信長に報告します。その情報を得た信長は全軍に奇襲攻撃を命じるというのです。

その桶狭間の合戦は奇襲攻撃でなかったと確信していますが、陸軍参謀本部はここでも、依然として通説を展開していることになります。

そして、合戦後に論功行賞がおこなわれ、「義元の所在を報告し、これを襲撃すべき意見を具申した梁田政綱には、沓掛城と三千貫の采地とを與(あた)へた」(『日本戦史』)として、義元の首をとった毛利新介より、政綱の功を上位にあげ、褒め称えているのです。

一級史料の『信長公記』はもちろん、通説のルーツともいうべき『甫庵信長記』にさえ、政綱が義元の所在を掴んでいたという話は記されていません。

『甫庵信長記』には、信長が迂回奇襲を将兵に命じるや、「梁田出羽守(政綱)進み出でて、仰せ最もしかるべく候(中略)必ず大将(義元)を討つ事も候はん」といい、信長の作戦によって必ず勝利すると将兵を鼓舞する役回りを演じさせられているに過ぎません。

しかし、「忠臣蔵」と堀部安兵衛の「高田馬場の決闘」がセットになっているように、いまや、桶狭間の合戦と政綱の手柄はセットで語られています。

それでは参謀本部はどこから、その話を拾ってきたのでしょう。古老の話を集めた江戸時代の逸話集『備前老人物語』に、政綱が「よき一言」を進言するや、信長が喜び、「その場にて沓懸村三千貫の地」を与えたという話が記されています。

旧陸軍参謀本部は、その「よき一言」を義元本陣に関する情報だと解釈したのでしょう。近代戦における情報収集の重要性は戦国時代と比較にならず、そこに参謀本部が梁田政綱をヒーローとする素地があったといえます。

こうして参謀本部は情報の重要性を読者に植え付けると同時に、合戦の敗者である義元に「文弱の弊に陥ってしまった」(『日本戦史』)というレッテルを貼ったのです。

今川義元というと、“歯に鉄漿(おはぐろ)、顔には白粉をつけ、公卿のように軟弱な武将“というイメージを抱きがちですが、その義元像のほとんどは『日本戦史』の記述に基づいています。

こうして情報戦を制した信長の手腕と共に、敗軍の将である義元の軟弱なイメージは、陸軍参謀本部によって作られたといえるのではないでしょうか。

次回(明日の予定)は、桶狭間と並び称され、「戦国時代の3大奇襲」に数えられる厳島の合戦について考えてみたいと思います。

桶狭間の謎と真相⑦ [織田信長]

信長が中島砦で2000の将兵に

「少数の兵だといって、多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある」(『信長公記』)

といって全軍を鼓舞し、まさに出陣しようとしたとき、前田利家以下、毛利長秀・同十郎・木下嘉俊・中川金右衛門らが手に手に敵の首を持って帰ってきます。彼らこそ、信長が撒いた”餌”だったのだと思います。

彼らは信長の遊撃軍、つまり陽動作戦のための部隊だったのではないでしょうか。彼らは斥候をかね、神出鬼没に義元の本隊を襲い、「敵がかかってきたら引け、敵が退却したら追え」という信長の命を受け、波状攻撃をかけていたのだと考えられます。

そうすることによって今川勢を疲弊させ、そして最後に信長は、彼らに退却を命じていたのでしょう。義元はこの攻撃を信長本隊の先鋒と勘違いしていた可能性があります。そうでないと、兵の乱取(らんどり)を許すはずがないからです。

乱取は前回書いたとおり、勝ち戦の褒賞として、征服地のオンナたちを狩り集めて”奴隷”とすること。勝ち戦のあとに雑兵らを喜ばせるための恩賞ともいえる行為です。雑兵らは戦いに勝利したあと、オンナを犯し、奴隷市場で売り払ってあぶく銭を稼ぐのが愉しみで、命を賭けて合戦に臨んでいたといえます。だから、戦いに勝ったあと、かの武田信玄や「義」の武将といわれる上杉謙信でさえ、兵に乱取を許しています。

こうみると義元は、前田利家らの攻撃を信長本隊の攻撃だと勘違いし、それを蹴散らしたと思ったからこそ、兵に乱取りを許したのではないでしょうか。現に、利家はこの少し前に信長の怒りを買い、蟄居を命じられていますが、彼はもともと信長の精鋭部隊・馬廻り衆に属する武将です。義元は当然、信長本隊の攻撃だと思ったことでしょう。

『武功夜話』という史料には、蜂須賀小六らの地侍に義元を桶狭間で足止めさせる戦術(近隣の百姓らに酒肴を義元に献じさせたとする)を採用していたことになっています。たしかに、そういう手段も用いたのかもしれませんが、やはり、義元は「勝った」と思ったからこそ、兵に乱取りを命じたと解するほうが理にかなっているような気がするのです。

しかし、これで「桶狭間の謎」がすべて解けたわけではありません。(つづく)

桶狭間史跡公園②.jpg


桶狭間の謎と真相⑥ [織田信長]

信長が桶狭間で勝つべくして勝った理由――その6割方は”敵失”によるものだと考えています。

桶狭間の合戦がおこなわれた旧暦の5月19日といえば、すでに夏。その日、梅雨晴れの1日となり、朝照りが厳しかったことが当時の記録から窺えます。そのため、進軍する今川義元の本隊も将兵らがぐったりしていたのでしょう。

そこで義元は、一気に大高城へ進まず、途中で野営する愚を犯してしまったのだと思います。さらに義元はそこで二重の過ちを犯してしまいます。『甲陽軍鑑』はその過ちについて、

「(今川勢が)諸方へ乱取(らんどり)にちり(散り)たる」

と記しています。『甲陽軍鑑』は『信長公記』より史料価値が落ちるといわれてきましたが、最近見直されつつある史料です。

その『甲陽軍鑑』にある「乱取」というのは“奴隷狩り”のこと。この時代、勝ち戦の褒賞として、征服地の非戦闘員を狩り集めて「奴隷」とし、上方の富裕層や南蛮人らに売り捌くことが半ば公認されていました。もちろん、オンナが主な乱取の対象であったことはいうまでもありません。

つまり、義元が休息と共に、兵たちに“オンナ狩り”を許していたのです。最前線の中島砦に軍を進めた信長はおそらく、斥候(偵察)により、この情報を入手していたのでしょう。『甲陽軍鑑』は続けて、織田勢は「(今川勢の)身方(味方)のや(よ)うに入まじり(混じり)」と記し、信長の部隊が、乱取に狂奔する今川兵を装い、桶狭間山の山際まで進んだことがわかります。

『甫庵信長記』によると、信長の本隊は、桶狭間山まで旗を巻き、忍び寄ったことになっています(「桶狭間の謎と真相③」参照)。「相手に気づかれないよう旗差物の類を巻き、義元の本陣を急襲せよ」という信長の作戦命令だったというのですが、そのくらいの偽装行為は、実行されたのかもしれません。

今川の歩哨(偵察兵)が信長の部隊を指して「あの敵勢はどのくらいの人数か」と騒ぎ合っていたことは、前回書きました。つまり、今川方の兵は乱取に夢中になるあまり、歩哨が手薄になり、十分な警戒活動を怠っていたのでしょう。だから乱取に興じる今川兵にまぎれ、桶狭間山に近づいてくる織田勢を発見するのが遅れたのだと思います。敵勢がどのくらいかわからなかったのも、織田兵と今川兵の見分けがつかなかったからではないでしょうか。

桶狭間の真相――それは、今川方の怠慢が織田方に”奇襲と同じ効果を与えた”ことにあるといえそうです。それでは、義元はなぜ兵に乱取を許したのでしょうか。以上の仮説が正しければ、義元が兵に乱取を許さず、もっといえば桶狭間山などで休息するより、まず大高城へ入ってしまえば、討ち取られることはなかったかもしれません。

理由のひとつはやはり、急な暑さで兵がぐったりしていたことにあるのでしょうが、信長は義元の油断を誘う餌を撒いていたのだと思います。(つづく)


桶狭間の謎と真相⑤ [織田信長]

『三河物語』という史料があります。

筆者は、江戸初期の著名な旗本・大久保彦左衛門。教育書としての一面もありますが、史料的価値はまずまずだと考えています。同書に、桶狭間山の今川兵が信長の本隊を捕捉していたことを示す記述があります。

今川兵らが、信長の本隊を指して「あの敵勢はどのくらいの人数か」と騒ぎ合っていたという部分です。彼らは本陣へ注進に及ぼうとしますが、そのころ信長の本隊は山際に達し、徒武者が早くも数人、山へ攻め上がって来たため、今川兵は慌てて「我先にト退ク」とあります。

そこに、「車軸ノ雨」(『信長公記』)が降りかかります。

ここからは、その『信長公記』の記述により、経過を追ってみましょう。

この季節には珍しい北西の季節風が大雨をともない、「急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ」ごとく、今川方の将兵の顔へ吹きつけ、視界をさえぎります。一方の織田の将兵は背中に風を受け、それを追い風として山を一気に駆け上がることができたのです。そして織田勢が山に駈け上がると同時に空が一転、晴れわたり、信長らは義元の本陣へ襲いかかります。

暴風雨に続く織田勢の急襲という混乱のなか、兵らは義元の朱塗りの輿さえ捨てて逃げ、哀れ、討ち取られたのでした。

こうみると、信長は奇跡ともいえる突然の暴風雨に助けられ、義元を討ち取ったといえなくもありません。まさに天が信長に味方している印象です。しかし、信長の勝因は、この自然現象だけではありませんでした。

この合戦には、織田方が勝つべくして勝つ明確な理由がありました。(つづく)

下の写真は「桶狭間史跡公園」内にある今川義元の墓です。

桶狭間史跡公園⑥今川義元墓.jpg

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