信長が本能寺で死ななかったら③ [織田信長]

勅使が安土へ下向し、信長が征夷大将軍宣下を受けるという話はトントン拍子に進んでいるようにみえます。

ところが、5月6日以降、それに関する話は史料上確認できなくなってしまいます。つまり、将軍就任と「織田幕府」開創の話はその後、立ち消えになったということなのでしょう。その理由は何だったのでしょうか。

まず考えられる理由は、そのほぼ1ケ月後の6月2日、信長が本能寺で憤死すること。将軍になる本人が死んでしまったのですから、話が立ち消えになるのは当然といえます。ただ、若干疑問が残らないわけではありません。

信長が将軍になり、幕府を開く野望を秘めていたのなら、なぜ武家伝奏の勧修寺晴豊から諮問された時点で即答しなかったのでしょうか。本能寺の変が起きる1ケ月の間に、信長が将軍になり、居城のある安土で幕府を開いていてもおかしくはありません。

勅使が安土へ下向までしたのですから、すぐさま将軍宣下を受けるのが、むしろ自然だと思います。なぜ、話が急に尻すぼみになったのでしょう。

信長としては、勅使下向により、将軍職宣下はいつでも受けられるという事実を確認しておくだけで十分だったのだと思います。

信長は6月3日に予定する「本能寺茶会」で、”ある要求”を朝廷に突きつける予定でした。その実現と同時に将軍職に就き、安土で「織田幕府」を開く考えだったのだと思います。

つまり、信長の野望実現は6月3日になってから――その準備として、信長は将軍職宣下に対する朝廷の意志を確認しておきたかったのでしょう。

「本能寺茶会」については次のシリーズで詳細に述べたいと思いますが、まずここでは、信長が朝廷につきつけようとしていた”ある要求”について考えてみようと思います。(つづく)

[お知らせ]
毎度、ご一読いただきありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※しばらく、本ブログと引っ越し先の双方で最新記事を掲載させていただきます。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。