信長が本能寺で死ななかったら② [織田信長]

信長が生きていたとしても、その構想どおり”シナ出兵計画”が現実のものとなっていたかどうか、定かではありません。

もう少し現実的に“信長の野望”を探ってみましょう。

天正10年(1582)、信長が宿敵・武田氏を滅ぼし、安土(滋賀県近江八幡市)へ凱旋した4日後のことです。

朝廷の武家取次役である勧修寺晴豊が、信長の家臣・村井貞勝(京都所司代)の邸に招かれ、

「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然(しかるべく)候」(『天正十年夏記』)

という信長の意向が朝廷側に伝えられます。

これを「三職推任(さんしきすいにん)問題」といい、戦国史の論点のひとつになっていますが、信長の部下と朝廷の武家取次役が、信長の任官問題について話し合っていたのは事実です。

推任というのは、上位の者の推挙によって官位につくことをいい、信長が任官する官職候補として、「太政大臣・関白・将軍」の三職が挙げられました。

それでは、信長がこの三職のうち、どの官位を望んでいたのでしょうか。「関白」はいわゆる摂関家(藤原氏)が世襲しており、信長が摂関家の誰かの養子や猶子にならなければなりません。のちに豊臣秀吉がその手を使い、関白に就任していますが、信長が望んだのは「太政大臣」だったという説もあります。

ただ、武家で太政大臣に就いたのは平清盛や足利義満とごく少数です。現実問題として信長は、征夷大将軍の職を望んだのではないでしょうか。朝廷も、征夷大将軍の職を与えるつもりだったのだと思います。

やがて勅使が安土へ下向するという具合に話はトントン拍子に進み、信長は、側近の森蘭丸を晴豊のところへ遣わします。そのとき晴豊は、

「関東打はたされ、珍重(ちんちょう)候間、将軍ニなさるへきよしと申候」(『天正十年夏記』)

といっています。晴豊が「関東(武田)を討ち果たされ、これほどめでたいことはない。(三職のうち)将軍に就くのがよいと考えます」と蘭丸に伝えたのです。

しかし、将軍就任と「織田幕府」開創の話はその後、立ち消えになります。その理由は何だったのでしょうか。(つづく)

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