桶狭間の謎と真相(最終回) [織田信長]

桶狭間の合戦をめぐる最後の謎は、信長の家臣梁田政綱(出羽守)の活躍に関するものです。

大日本帝国陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』によると、政綱は、沓懸(豊明市)方面へ派遣していた間諜(スパイ)の情報によって、義元が田楽狭間で休息していることを知り、信長に報告します。その情報を得た信長は全軍に奇襲攻撃を命じるというのです。

その桶狭間の合戦は奇襲攻撃でなかったと確信していますが、陸軍参謀本部はここでも、依然として通説を展開していることになります。

そして、合戦後に論功行賞がおこなわれ、「義元の所在を報告し、これを襲撃すべき意見を具申した梁田政綱には、沓掛城と三千貫の采地とを與(あた)へた」(『日本戦史』)として、義元の首をとった毛利新介より、政綱の功を上位にあげ、褒め称えているのです。

一級史料の『信長公記』はもちろん、通説のルーツともいうべき『甫庵信長記』にさえ、政綱が義元の所在を掴んでいたという話は記されていません。

『甫庵信長記』には、信長が迂回奇襲を将兵に命じるや、「梁田出羽守(政綱)進み出でて、仰せ最もしかるべく候(中略)必ず大将(義元)を討つ事も候はん」といい、信長の作戦によって必ず勝利すると将兵を鼓舞する役回りを演じさせられているに過ぎません。

しかし、「忠臣蔵」と堀部安兵衛の「高田馬場の決闘」がセットになっているように、いまや、桶狭間の合戦と政綱の手柄はセットで語られています。

それでは参謀本部はどこから、その話を拾ってきたのでしょう。古老の話を集めた江戸時代の逸話集『備前老人物語』に、政綱が「よき一言」を進言するや、信長が喜び、「その場にて沓懸村三千貫の地」を与えたという話が記されています。

旧陸軍参謀本部は、その「よき一言」を義元本陣に関する情報だと解釈したのでしょう。近代戦における情報収集の重要性は戦国時代と比較にならず、そこに参謀本部が梁田政綱をヒーローとする素地があったといえます。

こうして参謀本部は情報の重要性を読者に植え付けると同時に、合戦の敗者である義元に「文弱の弊に陥ってしまった」(『日本戦史』)というレッテルを貼ったのです。

今川義元というと、“歯に鉄漿(おはぐろ)、顔には白粉をつけ、公卿のように軟弱な武将“というイメージを抱きがちですが、その義元像のほとんどは『日本戦史』の記述に基づいています。

こうして情報戦を制した信長の手腕と共に、敗軍の将である義元の軟弱なイメージは、陸軍参謀本部によって作られたといえるのではないでしょうか。

次回(明日の予定)は、桶狭間と並び称され、「戦国時代の3大奇襲」に数えられる厳島の合戦について考えてみたいと思います。

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