桶狭間の謎と真相⑦ [織田信長]

信長が中島砦で2000の将兵に

「少数の兵だといって、多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある」(『信長公記』)

といって全軍を鼓舞し、まさに出陣しようとしたとき、前田利家以下、毛利長秀・同十郎・木下嘉俊・中川金右衛門らが手に手に敵の首を持って帰ってきます。彼らこそ、信長が撒いた”餌”だったのだと思います。

彼らは信長の遊撃軍、つまり陽動作戦のための部隊だったのではないでしょうか。彼らは斥候をかね、神出鬼没に義元の本隊を襲い、「敵がかかってきたら引け、敵が退却したら追え」という信長の命を受け、波状攻撃をかけていたのだと考えられます。

そうすることによって今川勢を疲弊させ、そして最後に信長は、彼らに退却を命じていたのでしょう。義元はこの攻撃を信長本隊の先鋒と勘違いしていた可能性があります。そうでないと、兵の乱取(らんどり)を許すはずがないからです。

乱取は前回書いたとおり、勝ち戦の褒賞として、征服地のオンナたちを狩り集めて”奴隷”とすること。勝ち戦のあとに雑兵らを喜ばせるための恩賞ともいえる行為です。雑兵らは戦いに勝利したあと、オンナを犯し、奴隷市場で売り払ってあぶく銭を稼ぐのが愉しみで、命を賭けて合戦に臨んでいたといえます。だから、戦いに勝ったあと、かの武田信玄や「義」の武将といわれる上杉謙信でさえ、兵に乱取を許しています。

こうみると義元は、前田利家らの攻撃を信長本隊の攻撃だと勘違いし、それを蹴散らしたと思ったからこそ、兵に乱取りを許したのではないでしょうか。現に、利家はこの少し前に信長の怒りを買い、蟄居を命じられていますが、彼はもともと信長の精鋭部隊・馬廻り衆に属する武将です。義元は当然、信長本隊の攻撃だと思ったことでしょう。

『武功夜話』という史料には、蜂須賀小六らの地侍に義元を桶狭間で足止めさせる戦術(近隣の百姓らに酒肴を義元に献じさせたとする)を採用していたことになっています。たしかに、そういう手段も用いたのかもしれませんが、やはり、義元は「勝った」と思ったからこそ、兵に乱取りを命じたと解するほうが理にかなっているような気がするのです。

しかし、これで「桶狭間の謎」がすべて解けたわけではありません。(つづく)

桶狭間史跡公園②.jpg


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