歴史発掘!!6月3日の「本能寺茶会」⑦ [織田信長]

6月1日、安土から上洛した信長を、大勢の公卿らが本能寺へご機嫌伺いのために伺候します。そのひとり、勅使として派遣された勧修寺晴豊の日記(『天正十年夏記』)には、こう記されています。

「一日 天晴。今日信長へ御使、甘露寺ト余(晴豊)両人。両御所ヨリ参じ候。そのほか公家衆各礼ニ被出候。よって村井(京都所司代)ニ申す所ニ信長各見参候。音信(進物)ともあるまじき候由候て各不出候。各出候て物語」

京都所司代の村井貞勝からご機嫌うかがいの公卿らに、まず「音信ともあるまじき候」(=挨拶の手土産はご遠慮願いたい)ということが事前に伝えられていることがわかります。形式にこだわらない信長らしい行為ですが、別の味方をすると、信長は「進物などでごまかされないぞ」という強い姿勢を打ち出したともいえます。

ところで、本能寺に公卿らが揃ったところで茶と菓子が振る舞われています。しかし、これはただ茶と菓子が出されただけであって、茶会とはいえません。問題は茶を啜りながら雑談となったあと、突然、場の雰囲気が変わり、

「いわれさる事なり。これ信長むりなる事候」(『天正十年夏記』)

と、公卿らと信長の間で激論が交わされたことです。晴豊はその理由を「改暦問題」(朝廷で使う暦を「京暦」から「三島暦」に変更すること)だとしていますが、それだけではなかったと思います。信長悲願の「安土遷都」の問題を話題になったのではないでしょうか。

この信長と公卿らが激論を交わしたという事実に、6月3日、信長が本能寺で茶会を催す予定だったという史実を重ね合わせると、ある仮説が成り立ちます。(つづく)

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