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利休の切腹について(最終回) [千利休]

豊臣秀吉と千利休が感情を剥き出しにしてまで激論を交わした問題とはいったい何だったのでしょう。

これまで語られてきませんでしたが、それは利休の”本業”にヒントがあると考えています。利休は高名な茶人ですが、その前に堺の商人でもあることを忘れてはならないと思っています。

利休は屋号を「魚屋(ととや)」といい、和泉国内に流通する塩魚を取り扱い、銀百両を稼いでいました。また、当時の商人は土地投機に走る”バブル商人”でもありました。実際に、利休が百舌鳥(もず=堺市)などで土地を買い漁っていた事実が確認できます。

この時代、百姓は領主に対して年貢を納めると同時に、地主といわれる人たちに「加地子」という地代を支払っていました。その地代は、領主の年貢よりはるかに高い時代でもあります。そして地主は、主に村々の富農や大名の下級家臣、それに商人たちでした。

ところが、秀吉はこの地主らの地代を取り上げようとしました。太閤検地の実施です。

太閤検地によって、地主らは地代を稼げなくなり、当時この問題をめぐって各地で問題が起り、また地主らは何とか自分たちの権利を守ろうと知恵を凝らしています。

利休が新しい道具に法外な値段をつけて売り、奈良興福寺の多聞院英俊が「売僧(まいす)の頂上(親分)」と酷評した話は以前に書きましたが(「利休の切腹について③」参照)、地主たちの中で最も権力に近い利休は、”地主の親分”的存在だったはずです。

地主の親分である利休が、地主の権利を奪おうとする秀吉と決裂するのはむしろ、自然な流れだったのではないでしょうか。秀吉の弟秀長の死により、政権内の”重し”がなくなって、秀吉と利休は互いに感情を剥き出しにしつつ、悲劇的な結末を迎えたというのが、筆者の考えです。

皆さんはどうお考えでしょうか。

明日以降は、織田信長をめぐる謎について、いくつか雑感的に考えたいと思っています。

利休の切腹について⑤ [千利休]

天正19年(1591)を迎えたばかりの正月2日、千利休がいまだ豊臣秀吉の懐刀であったことを窺わせる手紙が残っています。

この年は正月の次に閏1月となりますが、その翌月の2月28日に利休は京の自邸で切腹して果てています。手紙の日付から切腹の日まで、90日にも満たない日数です。わずかな間に懐刀から一転して罪人として処罰されたことになり、不思議な出来事といわざるをえません。これが、利休切腹の真相に至る重要なキーワードだと考えています。

そのわずかな間に何があったのでしょうか。それを探ることこそ、真相へ至る近道だと考えました。そういう目で日本史の年表をくくってみると、ひとつ、豊臣政権にとって重大な出来事が起きていることがわかります。利休とともに、秀吉の側近中の側近だった弟の秀長が正月22日に病死しているのです。

利休と秀吉が何らかのことで対立していたと仮定しましょう。しかし、豊臣政権の重鎮である秀長が死去するまでは、彼が”重し”の役を果たし、2人の正面衝突を抑えていたと考えられないでしょうか。

2人を抑える重しがなくなって、利休と秀吉は互いに感情を剥きだしにしはじめたはずです。それは、利休が北政所(秀吉正室ねね)を通じて助命嘆願するようにという前田利家の助言を突っぱね、「女に頭を下げてまで助かろうとは思わない」と感情的になった証言からも裏付けられます(前回参照)。

そこで次に問題となるのが、利休と秀吉は何について、そこまで感情的に対立していたのか――ということでしょう。

茶道に対する利休と秀吉の考え方の相違も対立点のひとつだったでしょう。利休の死後、朝鮮出兵が一気に進むことを考えると、推進派(秀吉)と反対派(利休)という対立構造があった可能性も否めません。

しかし、2人にはより根深く、また、決定的ともいえる対立点があったのです。ほとんど語られてきていませんが、次回(明日の予定)、2人が感情を剥きだしにしつつ、激しく言い争った可能性がある対立点について考えてみたいと思います。(つづく)


利休の切腹について④ [千利休]

豊臣秀吉はなぜ千利休に切腹を命じたのか――その本当の理由を探る上で大きな”手がかり”が存在します。

秀吉は、はじめ利休を磔にしようとしていました。さすがに周囲の反発もあり、それはとりやめになりましたが、秀吉の親友・前田利家も、利休に対して、大政所と北政所(秀吉の母と正室)を通じて詫びるよう進言しています。ところが、利休は、

「命おしきとて、御女中方を頼み候ては、無念に候」(『千利休伝記御尋之覚書』)

といって、せっかくの命乞いのチャンスを自ら棒に振っています。つまり、利休は女に頭を下げてまで助かろうとは思わないと意地になっているのです。

一方の秀吉は秀吉で、かつて豊後の大友宗麟をして「(利休のほか)関白様へ一言申上ぐる人これ無し」といわしめるほど信用していた側近を磔にしようとしたのですから、かなりムキになっていたといえるでしょう。

以上のことから、2人ともまず感情が前面に出ていたことがわかります。茶道に対する秀吉と利休の考え方のちがい、つまり芸術的対立論が背景にあったといわれるのも、互いに男どうし、どうしても自分の意見は曲げられないという頑なな2人の態度があったからではないでしょうか。

しかし、芸術的対立論が背景にあったとしても、決してそれだけではなかったはずです。2人が感情的になるほどの対立点が他にあったと考えています。

そのためには、もう一つ、謎解きのための重要なキーワードが必要です。そのキーワードというのが……。(つづく)

利休の切腹について③ [千利休]

千利休切腹の理由にまつわる諸説のひとつに、茶道具をめぐる疑惑というのがあります。今日はその疑惑を取り上げたいと思います。

奈良興福寺の僧・多聞院英俊は、利休切腹当日の日記にこんなことを書き残しています。

「宗易、今暁腹切了。近年新儀ノ道具共用意シテ、高直(高値)ニウル(売る)。マイス(売僧)の頂上也」

ご承知のとおり、宗易は出家した利休の法名。その宗易(利休)が地位を利用し、新しい茶道具に法外な値段をつけて売っていたというのです。だから、切腹させられたのだといわんばかりの記述です。たしかに、利休が一言褒めたらどんなガラクタ茶器でも、たちまち名器に早変わりしたことでしょう。同じ僧侶として英俊は、そのような”売僧の親分”である利休を許せなかったのだと思います。

とても”わび茶”を大成した茶人の行為とは思えませんが、これまた、それが事実かどうかは確認できません。ただし、僧の日記という一級史料に掲載されている話ですから、そういう噂があったことだけはたしかだと思います。

しかし、金毛閣事件(「利休の切腹について①」参照)と同じく、豊臣秀吉が利休を必要としていたら、この程度の悪事には目を瞑るはずです。やはり、ほかに本当の理由があったとしか考えられません……。(つづく)


利休の切腹について② [千利休]

豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた理由のひとつに「利休が娘を側室に上げるのを拒否したから」という説があります。秀吉が希代の女好き(今後、本ブログで考えたいテーマのひとつです)だったことを考えると、いかにもありそうな話です。

実際に『千利休伝記御尋之覚書』という史料にその話が掲載されています。前回述べたとおり、この史料は、利休の曾孫が紀州藩(当時、利休の曾孫は同藩に仕えていました)の質問に答えるという形でまとめられたものです。紀州藩はまずこう質問しています。

「利休生害の理由として、(利休の)娘の話もあるが、それについてはどうか」

このように”側室拒否説”は当時からありました。しかし、事実と噂はちがいます。利休の曾孫も、

「世上、そういう話が伝わっていますが、しかと存じません」

と回答しています。

たしかに利休に娘がいたのは事実です(通説は4人)。秀吉が鷹狩りの帰りにその1人を見染め、側室に求めます。その娘(亀・綾・吟という名が伝わります)は後家、つまりバツイチでした。ところが、精査してみると、その条件にピッタリあう娘がみつかりません。やはり、秀吉の女好きというイメージが世上の噂となったとしか思えないのです。

それでは、秀吉が利休に切腹を命じた本当の理由は何だったのでしょうか。

引き続き、その問題を考えます。(つづく)


利休の切腹について① [千利休]

豊臣秀吉が千利休を処刑(切腹)した理由はいくつか考えられます。

①京の大徳寺三門(金毛閣)に、利休が自身の木像を安置したことに秀吉が激怒したという説
②娘を側室にしたいという秀吉の申し出を利休が断ったからだという説

ほかにも、いくつか理由は挙げられますが、まず通説として最も根強い上記の真偽について考えてみましょう。

まず①ですが、利休は臨済宗の大徳寺と浅からぬ縁があり、応仁の乱で焼け落ちたままの三門を再興しようとしました。しかし、いくら建立者とはいえ、自身の像を三門に掲げるのは不敬な行為に当たります。なぜなら、天皇や高貴な公卿らがその三門の下をくぐり、参詣に訪れるからです。

『千利休伝御尋之覚書』によると、

秀吉は「その門の上に己の木像に草履を履かせ置き候段、不礼不義」だとし利休を処罰したと書かれています。

この史料は、紀州藩に仕えた利休の曾孫が、藩の”御尋(おたずね)”に答えた内容をまとめたものです。利休の子孫がいい加減な話を仕官先の紀州藩に伝えるはずがありません。以上の話は事実だったのでしょう。

しかし、金毛閣事件はあくまで利休処刑の口実に過ぎなかったのではないかと考えています。秀吉が本当に利休を必要としていたら、この程度の不敬には目を瞑るはずだからです。

それでは、秀吉が利休を処刑しようとした本当の理由は何なのでしょう。②の側室拒否問題だったのでしょうか。次にそのことについて考えます。(つづく)



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