利休の切腹について(最終回) [千利休]

豊臣秀吉と千利休が感情を剥き出しにしてまで激論を交わした問題とはいったい何だったのでしょう。

これまで語られてきませんでしたが、それは利休の”本業”にヒントがあると考えています。利休は高名な茶人ですが、その前に堺の商人でもあることを忘れてはならないと思っています。

利休は屋号を「魚屋(ととや)」といい、和泉国内に流通する塩魚を取り扱い、銀百両を稼いでいました。また、当時の商人は土地投機に走る”バブル商人”でもありました。実際に、利休が百舌鳥(もず=堺市)などで土地を買い漁っていた事実が確認できます。

この時代、百姓は領主に対して年貢を納めると同時に、地主といわれる人たちに「加地子」という地代を支払っていました。その地代は、領主の年貢よりはるかに高い時代でもあります。そして地主は、主に村々の富農や大名の下級家臣、それに商人たちでした。

ところが、秀吉はこの地主らの地代を取り上げようとしました。太閤検地の実施です。

太閤検地によって、地主らは地代を稼げなくなり、当時この問題をめぐって各地で問題が起り、また地主らは何とか自分たちの権利を守ろうと知恵を凝らしています。

利休が新しい道具に法外な値段をつけて売り、奈良興福寺の多聞院英俊が「売僧(まいす)の頂上(親分)」と酷評した話は以前に書きましたが(「利休の切腹について③」参照)、地主たちの中で最も権力に近い利休は、”地主の親分”的存在だったはずです。

地主の親分である利休が、地主の権利を奪おうとする秀吉と決裂するのはむしろ、自然な流れだったのではないでしょうか。秀吉の弟秀長の死により、政権内の”重し”がなくなって、秀吉と利休は互いに感情を剥き出しにしつつ、悲劇的な結末を迎えたというのが、筆者の考えです。

皆さんはどうお考えでしょうか。

明日以降は、織田信長をめぐる謎について、いくつか雑感的に考えたいと思っています。
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労軽好人

楽しく読ませていただきました。歴史の事実を合理的な根拠をもって、通説にとらわれずに解説される跡部蛮さんの視点にすばらしさを感じました。
また、次回以降も期待しています。
by 労軽好人 (2011-07-01 11:41) 

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