利休の切腹について⑤ [千利休]

天正19年(1591)を迎えたばかりの正月2日、千利休がいまだ豊臣秀吉の懐刀であったことを窺わせる手紙が残っています。

この年は正月の次に閏1月となりますが、その翌月の2月28日に利休は京の自邸で切腹して果てています。手紙の日付から切腹の日まで、90日にも満たない日数です。わずかな間に懐刀から一転して罪人として処罰されたことになり、不思議な出来事といわざるをえません。これが、利休切腹の真相に至る重要なキーワードだと考えています。

そのわずかな間に何があったのでしょうか。それを探ることこそ、真相へ至る近道だと考えました。そういう目で日本史の年表をくくってみると、ひとつ、豊臣政権にとって重大な出来事が起きていることがわかります。利休とともに、秀吉の側近中の側近だった弟の秀長が正月22日に病死しているのです。

利休と秀吉が何らかのことで対立していたと仮定しましょう。しかし、豊臣政権の重鎮である秀長が死去するまでは、彼が”重し”の役を果たし、2人の正面衝突を抑えていたと考えられないでしょうか。

2人を抑える重しがなくなって、利休と秀吉は互いに感情を剥きだしにしはじめたはずです。それは、利休が北政所(秀吉正室ねね)を通じて助命嘆願するようにという前田利家の助言を突っぱね、「女に頭を下げてまで助かろうとは思わない」と感情的になった証言からも裏付けられます(前回参照)。

そこで次に問題となるのが、利休と秀吉は何について、そこまで感情的に対立していたのか――ということでしょう。

茶道に対する利休と秀吉の考え方の相違も対立点のひとつだったでしょう。利休の死後、朝鮮出兵が一気に進むことを考えると、推進派(秀吉)と反対派(利休)という対立構造があった可能性も否めません。

しかし、2人にはより根深く、また、決定的ともいえる対立点があったのです。ほとんど語られてきていませんが、次回(明日の予定)、2人が感情を剥きだしにしつつ、激しく言い争った可能性がある対立点について考えてみたいと思います。(つづく)


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