最終決着! 本能寺の変 [跡部蛮 歴史]

戦国時代最大のミステリーが本能寺の変であることに異存のある方は少ないと思います。

何しろ、日本史はおろか、東アジア史においても重要な意味を持つ事件でありながら、明智光秀が本能寺で織田信長を討ったという事実を除いて、光秀の動機や信長が隙だらけだった理由を含めて、何一つわかっていないからです。

したがって、事件を裏で操る黒幕がいたという諸説が百花繚乱の賑わいをみせています。最近では、本能寺の変の仕掛け人が信長自身であったという説も提唱されています。

私もその説に賛成です。まず、イスパニアの商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』に書かれた「余(信長のこと)は余自ら死を招いたな」という言葉。信長が本能寺で討ち死にする際に残した言葉とされていますが、この言葉の意味がどうにもこうにも引っかかっていました。

そこで、本能寺の変にまつわる「謎」をひとつづつ解いていくうちに、あるひとつの結論に至りました。その結論に私自身、自分で導き出した結論であるにもかかわらず、愕然としたことをいまでも鮮烈に覚えています。

その結論へ至るプロセスについては、とても本ブログ内でご紹介できる分量ではありません。ご興味ある方は、

7月5日(火曜日)発売の近著『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』(双葉新書、本体800円+税)

新書表紙.jpg

を是非ご一読いただければと思います。

信長は6月2日に本能寺で光秀に討たれますが、その翌日、信長が本能寺で大茶会を催す予定になっていたことが論の中心になっています。

すべては、信長が光秀に”2項目にわたる密命”を与えたところから、本能寺の変はスタートします。そこで気になるのが、信長と光秀の関係です。通説では、信長からいろんな苛めを受けたことになっている光秀ですが、信長が最も信頼していた家臣こそ、光秀だったと考えています。そうでなければ密命を与えるはずがないからです。

次回(明日の予定)は、信長と光秀の意外な関係について考えたいと思います。
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