利休の切腹について① [千利休]

豊臣秀吉が千利休を処刑(切腹)した理由はいくつか考えられます。

①京の大徳寺三門(金毛閣)に、利休が自身の木像を安置したことに秀吉が激怒したという説
②娘を側室にしたいという秀吉の申し出を利休が断ったからだという説

ほかにも、いくつか理由は挙げられますが、まず通説として最も根強い上記の真偽について考えてみましょう。

まず①ですが、利休は臨済宗の大徳寺と浅からぬ縁があり、応仁の乱で焼け落ちたままの三門を再興しようとしました。しかし、いくら建立者とはいえ、自身の像を三門に掲げるのは不敬な行為に当たります。なぜなら、天皇や高貴な公卿らがその三門の下をくぐり、参詣に訪れるからです。

『千利休伝御尋之覚書』によると、

秀吉は「その門の上に己の木像に草履を履かせ置き候段、不礼不義」だとし利休を処罰したと書かれています。

この史料は、紀州藩に仕えた利休の曾孫が、藩の”御尋(おたずね)”に答えた内容をまとめたものです。利休の子孫がいい加減な話を仕官先の紀州藩に伝えるはずがありません。以上の話は事実だったのでしょう。

しかし、金毛閣事件はあくまで利休処刑の口実に過ぎなかったのではないかと考えています。秀吉が本当に利休を必要としていたら、この程度の不敬には目を瞑るはずだからです。

それでは、秀吉が利休を処刑しようとした本当の理由は何なのでしょう。②の側室拒否問題だったのでしょうか。次にそのことについて考えます。(つづく)



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