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元就という男(最終回)[人心掌握編] [毛利元就]

イメージ作りのうまかった元就は、吉田郡山城籠城戦(前回参照)でみせた百姓からの信頼と共に、終世、家臣から信頼を集める努力を怠りませんでした。

最終回の今回は、「そこまでやるか…」という元就の逸話をご紹介したいと思います。

元就晩年の逸話です。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、その場合はご容赦ください。

岩木道忠という家臣が合戦で敵の毒矢を左腿に受けます。ひと戦(いくさ)終わって陣中を見廻っていた元就が道忠をみつけ、事情を聞きます。そして毒矢の毒に苦しんでいると聞くや、元就は何の躊躇(ためらい)いもなく、みずから道忠の傷口にかぶりつき、膿を吸い取ったというのです(『名将言行録』より)。

このころ、すでに元就は中国に覇権を唱える大大名です。しかも、その迅速な処置が功を奏し、道忠は一命をとりとめます。道忠が感涙にむせび、主君へ絶対的な忠誠を誓ったのはいうまでもありません。当然、この話は毛利の家中にとどまらず、他国へも広がったことでしょう。

謀略の限りを尽くしながら、智将と讃えられ、多くの”ちょっといい話”を残した元就。戦国武将の中でも稀有な存在といえるかもしれません。

次回(明日の予定)以降、豊臣秀吉の天下統一戦について考えてみたいと思います。

元就という男②[百万一心編] [毛利元就]

百万一心という言葉があります。

元就は居城の吉田郡山城の城域を拡大する大増築をおこなった際、人柱の替りに「百万一心」と書いた石碑を用いたという話があります。皆で力を合わせれば、何事も成し遂げられるという意味でした。

天文9年(1540)9月、その吉田郡山城に出雲の尼子晴久率いる3万の大軍が殺到したときのことです。元就は領民らを戦火から守るため城内に避難させます。まさに百万一心の精神の現れです。

尼子勢は予想どおり領内を放火して回りますが、城内に籠る百姓らは、自分たちの家が焼かれるのを見ても落胆せず、逆に「尼子殿は雲客、引き下ろしてずんぎり曳こ曳こ」(出雲からやって来た尼子勢をノコギリで曳いてしまえ)と、唄いだしました。

このとき城内に避難した百姓は農民・町人あわせて8000人。一方の籠城兵は2500程度にすぎず、ふつう兵粮米の備えを考えると、それだけの領民を城内に避難させることは無謀です。ところが、元就は武士と百姓が一致団結する姿勢を示すため、敢えて百姓たちを籠城させたのです。

元就のその狙いは的中し、大軍に包囲されながら城内の士気はまったく衰えず、山口の大内勢の来援もあってこの籠城戦に勝利します。

ただし、「領民らを戦火から守るため」という名目により百姓を籠城させたとはいえ、別の捉え方をすると、尼子の大軍に抗するべく、元就は百姓に武器をとらせ、籠城兵として動員したといえなくはありません。これが別の武将なら、後世の歴史家の評価も変わったはずです。

しかし、元就の場合、歴史家どころか、強制的に籠城させられた百姓らも、例の唄を歌うほど意気盛んでした。すなわち、元就の人心掌握術のたまものなのです。

この武将のためなら、命も惜しまない。百姓らにそこまで思うわせる武将は他に例がないと思います。もちろん、元就の”人となり”に負うところは大きかったでしょうが、これも彼がイメージ作りに気をつけていた結果に他ならないと考えています。(つづく)


元就という男①[3本の矢の謎編] [毛利元就]

毛利元就が誰か知らなくとも、彼の有名エピソード「三矢(さんし)の訓(おしえ)」を知らない人は少ないと思います。

元就が臨終に際して息子たちを集め、まず兄弟に1本づつ矢を折らせ、次に3本束ねて折らせるという例の逸話です。束ねた矢は折れないことを兄弟に示し、一致団結して毛利家を盛りたてるように諭した話です。Jリーグ・サンフレッチェ広島のチーム名も、この逸話に因んでいたと思います。

しかし、この話は事実ではありません。まず、長男の隆元は、元就が死去する9年前に早逝しています。

そして、元就臨終のみぎり、次男の吉川元春は出雲出陣中で、臨終の席にいたのは3男の小早川隆景だけだったはずです。

それではなぜ、この話がこれほど有名になったのでしょう。江戸時代中期に成立した逸話集の『常山紀談』には、病状が重くなった元就が子らの前で、兄弟の数ほど矢を取り寄せ、

「多くの矢をひとつにして折りたらんには細き物も折り難し。一筋づつわかちて折りたらんには、たやすく折るるよ。兄弟心を同じくして相親むべし」

と遺言したと書かれています。

幕末から明治にかけて、この「三矢の訓」は一気に庶民の間に普及しますが、明治の終わりごろ「三矢の訓」は、「イソップ物語」の『小枝の束』という寓話からストーリーを拝借したものだとする論文が文学雑誌に発表されます。

元就の時代、イエズス会の宣教師や南蛮人と共に、イソップ物語も日本に入っていた可能性は否定できません。元就がイソップの寓話を好み、『小枝の束』に触発されて、それを日本流にアレンジしたとも考えられます。

臨終の際ではなかったにせよ、元就は兄弟や家臣にこの話を好んで話し、結束力の大切さを訴えていたからこそ、『常山紀談』ほかの逸話集に掲載されたのではないでしょうか。

というのも、元就という武将は、生涯、権謀術数の限りを尽くし、いうなら謀略を駆使して他国の領土を斬り従えていった武将であるにもかかわらず、後世に悪い印象を残していないからです。すべて彼の悪事は美談におおい隠され、なかなかみえてきません。彼は非常にイメージ作りのうまい武将だったのだと思います。

「三矢の訓」と共に、「百万一心」という元就のモットーも、彼のイメージ戦略のなせる技だったのだと考えられます……。(つづく)

毛利元就と厳島の合戦(最終回) [毛利元就]

毛利軍はどのようにして大軍の陶軍を打破ることができたのでしょう。

まず、通説でいう陶軍の数に疑問があります。

『陰徳太平記』は4ヶ国から2万余の大軍を動員したとしています。しかし、陶軍が大潰走したにも関わらず、旧大内家の重臣だった宿老らが戦死したという史料はみあたりません。

総大将の晴賢が戦死するほどの激戦だったわけですから、彼らが出陣していたのなら、当然、討ち死にしていてもおかしくはありません。彼らは合戦に参加していなかったのではないでしょうか。

晴賢は主君の義隆から大内家の実権を奪ったばかり。かつての同僚であった宿老らを動員するだけの影響力を行使できなかったのだと思います。つまり、陶軍は史料でいうほどの大軍ではなかったのです。

それでも軍勢の数は、1万は下らなかったでしょう。まだ毛利とは2倍の兵力差があります。

元就の勝利を決定づけたのは、来島衆(村上水軍)の活躍にあったと考えています。元就は瀬戸内海の来島を本拠とする彼らに加勢を求め、その到着を一日千秋の思いで待ち続けています。そのことを示す書状も残っています。

ここで、毛利軍が塔ノ岡にある陶軍の本陣を襲ったときまで話を遡りたいと思います(前回参照)。暴風雨をついて上陸した毛利軍の勢いに押され、陶軍の兵士らは停泊中の船に駆けこみます。

元就の上陸を知っていたとはいえ、まさか嵐をついて上陸することを予期していなかった陶軍の兵士らは心の準備がつかず、狼狽したようです。本陣へ突っこんできた死に物狂いの毛利兵をみて尻ごみし、本拠の周防へ逃げ帰ろうとしたのでしょう。

ところが、そのとき来島水軍が「船を乗り廻し、(陶軍の船を)追いかけて」(『陰徳太平記』)討とうとします。

つまり、陶軍は前方から勢いに乗る毛利軍に攻められ、逃げようと思っても背後には来島水軍が手ぐすね引いて待っているという状況に追いこまれたのです。こうして陶軍は大混乱をきたし、大潰走に繋がったのだと考えられます。

次回(明日の予定)からは、この合戦の主役である毛利元就の事蹟を追ってみたいと思います。(つづく)

毛利元就と厳島の合戦の謎④ [毛利元就]

『陰徳太平記』には、毛利勢が厳島の包ヶ浦に上陸したあとの動きが詳細に綴られています。

元就はまず小高いところに上って篝火をたかせます。たとえ暴風雨の中の渡海で将兵がズブ濡れになっていたとはいえ、元就が奇襲を意図していたら、上陸して早々、わざわざ敵に上陸を知らせるような愚を犯すはずがありません。

そのあと、青い靄や黒い霧が峰や谷をおおい、陶軍の本陣がある塔ノ岡への道に迷っていると、牡鹿が現われ、その先導によって毛利勢は道を進むことができたといいます。このあたり、作為的な記述ですが、もう少々おつきあい下さい。

やがて毛利勢は博打尾(ばくちお)という峰を望むあたりにまで進出します。その博打尾の峰には陶家の重臣・弘中三河守隆兼らが陣所を置いていました。元就はさらに軍を進め、そこで大演説をぶちます。

「敵陣にかかる首途(かどで)に博打尾へ上る事、敵に打ち勝つべく先表(前触れ)なり」(『陰徳太平記』)

この勇ましい演説に、将兵らは勢いこみ、「えい、えい」という掛け声をあげます。繰り返しますが、博徒尾の峰には敵が陣を構えているのです。これでは敵に襲来を告げるようなものです。

案の定、武者の咆声は三河守らの耳に達しました。博打尾の敵陣は突然の敵衆に狼狽します。その意味では、不思議なほど陶勢は無警戒で、毛利勢は奇襲に成功したかにみえます。しかし、三河守は冷静に判断し、

「この勢ばかりにては合戦成り難く候はん。まずここを去って塔ノ岡へ集まり、入道殿(陶軍の総大将・晴賢のこと)と一手に成り…」(『同』)

つまり、本陣へ敵衆を知らせ、一手となって毛利勢を粉砕しようというのです。もっともな戦術だと思います。しかも、三河守は陣の篝火をそのままにして、兵に撤収を命じます。

一方の毛利勢はその篝火に惑わされ、総勢が一斉に鬨の声をあげて斬りこみますが、敵陣には1人も残っていませんでした。毛利勢はまんまと三河守の戦術に嵌まってしまったのです。

この隙に博打尾の陶勢は本陣のある塔ノ岡へ戻り、合流することができました。したがって、毛利勢が本陣へ突撃したとき、陶勢はその攻撃を予想し、ある意味、待ち受けていたことになります。

『陰徳太平記』は江戸時代の元禄期に成立していますから、それ以降、厳島の合戦が奇襲攻撃だったという話へと脚色され、いまの通説ができあがったのでしょう。

ただ、そうなると、大きな謎が生じてきます。奇襲でもなく、誘出の計(「毛利元就と厳島の合戦の真相」①参照)もなかったとすると、どうやって元就は陶軍を粉砕したのでしょうか。(つづく)


毛利元就と厳島の合戦の謎③ [毛利元就]

厳島の合戦について語る際に必ず持ち出される史料が『陰徳太平記』です。通説はほぼ、その記述にもとづいているといってもいいと思います。

『陰徳太平記』は、一級史料で裏付けされる部分もあり、まずまず信用できる史料ですが、こと厳島合戦の項については、作者の筆が走りすぎたようです。

まず、この合戦の最大の”みどころ”である「誘出の計」。元就の智略がほとばしる合戦の重要なポイントですが、詳細に検討してみると、この作戦は、『陰徳太平記』の創作であったことがわかります。

陶軍が安芸方面へ進軍する場合、まず周防から海路、厳島を経由するルートが一般的です。つまり、元就がわざわざ誘い出さなくても、陶軍は、安芸侵攻の拠点として当初から厳島上陸を考えていたのです。

大軍を狭隘な島に誘い入れて殲滅するという『陰徳太平記』の話は、いっけん説得力があるように思えます。しかし、2万余という陶軍の軍勢も誇張されていたものでした(次回以降詳述します)。桶狭間の通説(別記事参照)と同じく、「誘出の計」は、少数の毛利方が大軍を打破るには何か突拍子もない戦術があったのに違いないという発想から生まれたものとしか思えないのです。

家臣の桂元澄に内応の起請文を書かせ、陶軍を油断させようとしたことは十分に考えられますが、それ以外の記述の多くは、捏造されたか誇張されたかのいずれかだと考えています。

たとえば『陰徳太平記』によると、「誘出の計」の重要な仕掛けとして、宮尾城を新たに築城したことになっています。しかし、宮尾城はもともとあった城。元就は、陶勢が厳島を安芸攻略の拠点とすることがわかっていたため、陶軍の襲来に備えて宮尾城を修復したにすぎません。

したがって、元就は宮尾城の後詰めとして厳島へ渡ったわけであり、「誘出の計」を完成させるのが目的ではなかったのです。ましてや、元就は奇襲攻撃を意図していたわけでもありません。それは桶狭間のときの織田信長と同じだったと思います。

『陰徳太平記』でさえ、この合戦が奇襲攻撃であったとは一言も書いていません。

次回(明日以降の予定)はそのことについて考えます。(つづく)

毛利元就と厳島の合戦の謎② [毛利元就]

元就が策した「誘出の計」は成功し、陶晴賢の大軍は厳島に誘い出されて宮尾城を囲みます。

そこで、弘治元年(1555)9月30日、厳島対岸の地御前(廿日市市)にまで軍を進めていた元就は、軍議を催します。そして、夜のうちに厳島へ渡海し、翌朝の卯の刻(午前6時)をもって陶軍の背後を衝く策を決定しました。

ところがです。いざ渡海という段になり、毛利軍は突然の暴風雨に直面します。船頭たちも尻ごみし、元就の家臣も渡海の延期を進言する始末。そのとき、元就は、

「陶(軍)、この暴雨疾風に、吾(元就)よも渡らじと油断してあるべくところへ、押し渡りて不意に一戦せば、吾、小勢をもって大軍に勝つべき事、必定なり!」(『陰徳太平記』)

と真っ先に、御座船を漕ぎださせます。こうなったら、家臣らも後に続くしかありません。

まさに戦況は元就のいったとおりでした。陶軍はたえず毛利軍の上陸を警戒していたものの、さすがにこの夜は、風雨激しく稲妻で海面は絶え間なく光っています。まさか、この悪天候を衝いて毛利軍が上陸してくるとは思ってもみなかったのでしょう。

さらに、海面に漂う水クラゲの群れを海の神の祟りだと思った見張りの兵らが警戒を怠り、陣中へ下がってしまいました。

こうして毛利軍は島の裏側にあたる包ヶ浦に上陸。予定より早く、早朝の5時半ごろ、陶軍本陣の背後の峰から攻めかかり、敵を潰走させて敵将の晴賢を死に追いやります。こうして、元就の奇襲は大成功をおさめるのです。

以上、通説に基づいて巷間伝わる合戦の概要を述べさせていただきました。

5倍の軍勢を奇策によって蹴散らし、敵の大将を討ち取るあたり、“桶狭間の通説”(過去記事参照)とそっくりですが、この厳島の合戦の通説も、誇張され、かつ捏造されているとしか考えられないのです……。(つづく)


毛利元就と厳島の合戦の謎① [毛利元就]

毛利元就といえば、ご存じ「三矢の訓(おし)え」で有名な武将です。

安芸国の国人領主から中国地方全域に及ぶ”毛利帝国”を一代で築きあげます。現代でいうなら、町工場を世界に冠たる一流企業に育て上げたようなものでしょうか。

その元就が中国で覇権を確立するキッカケになったのが厳島の合戦です。桶狭間と共に”みどころ満載”の合戦ですが、知名度はいまひとつといわざるを得ません。この合戦もまた、虚飾という名の化粧を施され、真相が見えにくくなっています。

まずは通説に従い、元就の智略がほとばしる合戦の流れをみてみましょう。

弘治元年(1555)当時、毛利家は安芸の国人らを従わせていたとはいえ、『陰徳太平記』によると、軍勢をかき集めても「五千には過ぐべからざる」勢力だったといいます。

一方、敵の陶晴賢(すえはるかた)は暗愚な主君・大内義隆を討ち果たし、大内家支配下の周防・長門・豊前・筑前の4ヶ国の軍勢を動員できる立場。その勢、「二萬五千」(『同』)が元就の本拠、安芸へ侵攻しようとしていました。

元就、絶体絶命のピンチです。しかし、戦国きっての智将はそこで妙案を思いつきます。

江戸時代の歴史家・頼山陽が著書『日本外史』に、

「厳島に城、蹙(しじか)みて誘う」

と書き残した作戦がそれです。一般には「誘出(ゆうしゅつ)の計」と呼ばれているようです。狭隘な厳島に城(宮尾城)を囮として築き、大軍の陶軍を誘い入れ、身動きできなくなったところを撃破しようという作戦でした。

この作戦をより確実にするため元就は、家臣の桂元澄へ晴賢へ内通する起請文を書かせます。広澄の父はかつて、元就によって自害に追いこまれています。したがって元澄が元就を裏切っても、晴賢は怪しまないだろうと踏んでの計略でした。

しかし、それではまだ心もとないと思ったのでしょう。元就は次なる罠を仕掛けます。

陶方の間者(スパイ)が毛利の家中に入りこんでいることを逆手にとり、

「(家臣の)諫言を用いず、厳島に城を築き、数多(あまた)の軍士を籠り置きたる事、吾一生の過ちなり」

「陶、大軍をもって彼の島(厳島)に渡りて、あの小城(宮尾城)を攻めなば、日を経ずして没落すべし」(いずれも『陰徳太平記』)

と、元就がいかにも陶軍の厳島渡海を恐れていると思わせるような偽情報を流し続けました。もちろん、元就の本音は逆。敵のスパイを使い、うまく情報操作する“反間の策”を用いたのです。

こうして、まんまと元就の罠に嵌まった2万余の陶軍は海を渡り、宮尾城を囲みます。こうして元就の作戦は成功したかにみえましたが……。(つづく)

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