元就という男①[3本の矢の謎編] [毛利元就]

毛利元就が誰か知らなくとも、彼の有名エピソード「三矢(さんし)の訓(おしえ)」を知らない人は少ないと思います。

元就が臨終に際して息子たちを集め、まず兄弟に1本づつ矢を折らせ、次に3本束ねて折らせるという例の逸話です。束ねた矢は折れないことを兄弟に示し、一致団結して毛利家を盛りたてるように諭した話です。Jリーグ・サンフレッチェ広島のチーム名も、この逸話に因んでいたと思います。

しかし、この話は事実ではありません。まず、長男の隆元は、元就が死去する9年前に早逝しています。

そして、元就臨終のみぎり、次男の吉川元春は出雲出陣中で、臨終の席にいたのは3男の小早川隆景だけだったはずです。

それではなぜ、この話がこれほど有名になったのでしょう。江戸時代中期に成立した逸話集の『常山紀談』には、病状が重くなった元就が子らの前で、兄弟の数ほど矢を取り寄せ、

「多くの矢をひとつにして折りたらんには細き物も折り難し。一筋づつわかちて折りたらんには、たやすく折るるよ。兄弟心を同じくして相親むべし」

と遺言したと書かれています。

幕末から明治にかけて、この「三矢の訓」は一気に庶民の間に普及しますが、明治の終わりごろ「三矢の訓」は、「イソップ物語」の『小枝の束』という寓話からストーリーを拝借したものだとする論文が文学雑誌に発表されます。

元就の時代、イエズス会の宣教師や南蛮人と共に、イソップ物語も日本に入っていた可能性は否定できません。元就がイソップの寓話を好み、『小枝の束』に触発されて、それを日本流にアレンジしたとも考えられます。

臨終の際ではなかったにせよ、元就は兄弟や家臣にこの話を好んで話し、結束力の大切さを訴えていたからこそ、『常山紀談』ほかの逸話集に掲載されたのではないでしょうか。

というのも、元就という武将は、生涯、権謀術数の限りを尽くし、いうなら謀略を駆使して他国の領土を斬り従えていった武将であるにもかかわらず、後世に悪い印象を残していないからです。すべて彼の悪事は美談におおい隠され、なかなかみえてきません。彼は非常にイメージ作りのうまい武将だったのだと思います。

「三矢の訓」と共に、「百万一心」という元就のモットーも、彼のイメージ戦略のなせる技だったのだと考えられます……。(つづく)
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