元就という男②[百万一心編] [毛利元就]

百万一心という言葉があります。

元就は居城の吉田郡山城の城域を拡大する大増築をおこなった際、人柱の替りに「百万一心」と書いた石碑を用いたという話があります。皆で力を合わせれば、何事も成し遂げられるという意味でした。

天文9年(1540)9月、その吉田郡山城に出雲の尼子晴久率いる3万の大軍が殺到したときのことです。元就は領民らを戦火から守るため城内に避難させます。まさに百万一心の精神の現れです。

尼子勢は予想どおり領内を放火して回りますが、城内に籠る百姓らは、自分たちの家が焼かれるのを見ても落胆せず、逆に「尼子殿は雲客、引き下ろしてずんぎり曳こ曳こ」(出雲からやって来た尼子勢をノコギリで曳いてしまえ)と、唄いだしました。

このとき城内に避難した百姓は農民・町人あわせて8000人。一方の籠城兵は2500程度にすぎず、ふつう兵粮米の備えを考えると、それだけの領民を城内に避難させることは無謀です。ところが、元就は武士と百姓が一致団結する姿勢を示すため、敢えて百姓たちを籠城させたのです。

元就のその狙いは的中し、大軍に包囲されながら城内の士気はまったく衰えず、山口の大内勢の来援もあってこの籠城戦に勝利します。

ただし、「領民らを戦火から守るため」という名目により百姓を籠城させたとはいえ、別の捉え方をすると、尼子の大軍に抗するべく、元就は百姓に武器をとらせ、籠城兵として動員したといえなくはありません。これが別の武将なら、後世の歴史家の評価も変わったはずです。

しかし、元就の場合、歴史家どころか、強制的に籠城させられた百姓らも、例の唄を歌うほど意気盛んでした。すなわち、元就の人心掌握術のたまものなのです。

この武将のためなら、命も惜しまない。百姓らにそこまで思うわせる武将は他に例がないと思います。もちろん、元就の”人となり”に負うところは大きかったでしょうが、これも彼がイメージ作りに気をつけていた結果に他ならないと考えています。(つづく)


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