毛利元就と厳島の合戦の謎④ [毛利元就]

『陰徳太平記』には、毛利勢が厳島の包ヶ浦に上陸したあとの動きが詳細に綴られています。

元就はまず小高いところに上って篝火をたかせます。たとえ暴風雨の中の渡海で将兵がズブ濡れになっていたとはいえ、元就が奇襲を意図していたら、上陸して早々、わざわざ敵に上陸を知らせるような愚を犯すはずがありません。

そのあと、青い靄や黒い霧が峰や谷をおおい、陶軍の本陣がある塔ノ岡への道に迷っていると、牡鹿が現われ、その先導によって毛利勢は道を進むことができたといいます。このあたり、作為的な記述ですが、もう少々おつきあい下さい。

やがて毛利勢は博打尾(ばくちお)という峰を望むあたりにまで進出します。その博打尾の峰には陶家の重臣・弘中三河守隆兼らが陣所を置いていました。元就はさらに軍を進め、そこで大演説をぶちます。

「敵陣にかかる首途(かどで)に博打尾へ上る事、敵に打ち勝つべく先表(前触れ)なり」(『陰徳太平記』)

この勇ましい演説に、将兵らは勢いこみ、「えい、えい」という掛け声をあげます。繰り返しますが、博徒尾の峰には敵が陣を構えているのです。これでは敵に襲来を告げるようなものです。

案の定、武者の咆声は三河守らの耳に達しました。博打尾の敵陣は突然の敵衆に狼狽します。その意味では、不思議なほど陶勢は無警戒で、毛利勢は奇襲に成功したかにみえます。しかし、三河守は冷静に判断し、

「この勢ばかりにては合戦成り難く候はん。まずここを去って塔ノ岡へ集まり、入道殿(陶軍の総大将・晴賢のこと)と一手に成り…」(『同』)

つまり、本陣へ敵衆を知らせ、一手となって毛利勢を粉砕しようというのです。もっともな戦術だと思います。しかも、三河守は陣の篝火をそのままにして、兵に撤収を命じます。

一方の毛利勢はその篝火に惑わされ、総勢が一斉に鬨の声をあげて斬りこみますが、敵陣には1人も残っていませんでした。毛利勢はまんまと三河守の戦術に嵌まってしまったのです。

この隙に博打尾の陶勢は本陣のある塔ノ岡へ戻り、合流することができました。したがって、毛利勢が本陣へ突撃したとき、陶勢はその攻撃を予想し、ある意味、待ち受けていたことになります。

『陰徳太平記』は江戸時代の元禄期に成立していますから、それ以降、厳島の合戦が奇襲攻撃だったという話へと脚色され、いまの通説ができあがったのでしょう。

ただ、そうなると、大きな謎が生じてきます。奇襲でもなく、誘出の計(「毛利元就と厳島の合戦の真相」①参照)もなかったとすると、どうやって元就は陶軍を粉砕したのでしょうか。(つづく)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。