毛利元就と厳島の合戦の謎② [毛利元就]

元就が策した「誘出の計」は成功し、陶晴賢の大軍は厳島に誘い出されて宮尾城を囲みます。

そこで、弘治元年(1555)9月30日、厳島対岸の地御前(廿日市市)にまで軍を進めていた元就は、軍議を催します。そして、夜のうちに厳島へ渡海し、翌朝の卯の刻(午前6時)をもって陶軍の背後を衝く策を決定しました。

ところがです。いざ渡海という段になり、毛利軍は突然の暴風雨に直面します。船頭たちも尻ごみし、元就の家臣も渡海の延期を進言する始末。そのとき、元就は、

「陶(軍)、この暴雨疾風に、吾(元就)よも渡らじと油断してあるべくところへ、押し渡りて不意に一戦せば、吾、小勢をもって大軍に勝つべき事、必定なり!」(『陰徳太平記』)

と真っ先に、御座船を漕ぎださせます。こうなったら、家臣らも後に続くしかありません。

まさに戦況は元就のいったとおりでした。陶軍はたえず毛利軍の上陸を警戒していたものの、さすがにこの夜は、風雨激しく稲妻で海面は絶え間なく光っています。まさか、この悪天候を衝いて毛利軍が上陸してくるとは思ってもみなかったのでしょう。

さらに、海面に漂う水クラゲの群れを海の神の祟りだと思った見張りの兵らが警戒を怠り、陣中へ下がってしまいました。

こうして毛利軍は島の裏側にあたる包ヶ浦に上陸。予定より早く、早朝の5時半ごろ、陶軍本陣の背後の峰から攻めかかり、敵を潰走させて敵将の晴賢を死に追いやります。こうして、元就の奇襲は大成功をおさめるのです。

以上、通説に基づいて巷間伝わる合戦の概要を述べさせていただきました。

5倍の軍勢を奇策によって蹴散らし、敵の大将を討ち取るあたり、“桶狭間の通説”(過去記事参照)とそっくりですが、この厳島の合戦の通説も、誇張され、かつ捏造されているとしか考えられないのです……。(つづく)


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