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関ヶ原の退き口(最終回) [島津義弘]

島津勢の「敵陣中央突破」という奇跡の謎を解き明かすヒントとして、『維新公関原御合戦記』の次のくだりに注目しました。

「関東の軍兵、左右にわかれ、敗軍を追ふて伊吹山に赴く」

島津が正面の東軍方(敵陣)へ斬り込んだあとの描写です。つまり東軍は、伊吹山山麓の北国脇往還方面へ逃げた石田三成・小西行長勢を追うことに夢中で、正面から突撃してくる島津勢を半ば無視していることがわかります。

次いで島津勢は福島正則の軍勢に遭遇します。しかしそのときも、

「正則戦ひを挑まず、故に正則が屯(陣)の前路を横にすぎて本道に突出」(『同』)

おそらく正則は朝鮮でみせた義弘の勇猛さを惜しみ、道を開けたのでしょう。

井伊直政のように執拗に追撃する部隊はあったものの、こうして島津勢は南宮山の麓まで逃げのびることができました。

そこには、同じく“逃げ遅れ組”の長束正家(なつか・まさいえ)や土佐の長宗我部盛親が布陣していました。ところが彼らは、島津勢に伊勢街道への道を譲るばかりか、関ヶ原から比較的近い近江水口城主の正家に至っては、道案内の兵まで貸し与えています。

もちろん、島津兵の勇猛果敢さによるところは大きかったと思いますが、東西両軍から義弘の武勇を惜しまれたこと、そして、東軍諸隊が三成や行長らの首を得ることに執心したことが、奇跡をもたらした大きな要因だったのではないでしょうか。
(つづく)

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関ヶ原の退き口③ [島津義弘]

伏見で本国薩摩へ軍勢催促した義弘は兄義久らに断られてしまいますが、そのあと“奇跡”が起こります。本国薩摩から続々と上方へ島津兵が終結するのです。

史料で確認できるだけでも約400名が薩摩・大隅から上方へはせ参じています。それをテーマにしたのが池宮彰一郎氏の小説『島津奔る』でした。

上方駐留の島津勢は1100程度でしたから、その4割近くの兵が本国からはせ参じたことになっています。いったいなぜなのでしょうか。

豊臣秀吉が朝鮮へ出兵したとき(文禄・慶長の役)の話です。島津勢が籠る泗川(しせん)の城に20万の明軍が攻め寄せます。ところが、『征韓録』には、義弘は、その雲霞のごとく大軍を蹴散らし、逆に敵の首3万8717を討ち取って明軍から「鬼の石曼子(しまんず)」といって恐れられたと書かれています。

島津の将兵はその義弘の武勇を慕っていたのです。

しかし、それでも伏見の島津勢は、1500にしかなりません。はじめ、義弘は東軍へ加わる予定でしたが、兄義久の愛娘(義弘の嫡男家久の正妻)らを大坂城で人質に取られている以上、西軍に与するしかありません。

「義弘、やむことをえず。ついに三成が催促に応ず」と『維新公関原御合戦記』にあります。

そして合戦の当日、逃げ遅れた島津勢は敵陣突破という奇跡を起こすのですが、それは、どのようにして可能となったのでしょう。

命を捨てた島津兵の勇猛果敢さはむろんのことですが、『維新公関原御合戦記』の次のくだりに注目しました…。
(つづく)

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関ヶ原の退き口② [島津義弘]

島津の兵が退路を断たれ、義弘は全軍に前代未聞の敵陣中央突破による退却を命じました。

敵陣へ向けて悲壮な覚悟の島津勢は突入を敢行します。その島津兵は雑兵のみならず、諸士全員が鉄砲を使います。しかし、鉄砲の引き金は1度引けても、2度引けない大混戦。義弘もさすがに死を覚悟しました。

そのとき、甥の豊久が「国家(薩摩)の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」(『維新公関原御合戦記』)といい、殿軍(しんがり)を引き受け、重臣の長寿院盛淳(ちょうじゅいん・せいじゅん)が義弘の影武者となって、2人とも壮烈な戦死を遂げます。

こうして東軍の追撃を振り払い、義弘は伊勢街道を南下。鈴鹿山中の駒野峠に差しかかったのが、9月15日、合戦当夜の10時ごろ。近江の信楽へ出て大和国経由で17日の夜、摂津の平野(ひらの)に到着します。

このとき義弘に従う将兵の数は、わずか80余名になっていました。

その後、堺から船に乗り、兵庫沖で大坂城から脱出してきた女たちの船と合流して日向に上陸。あとは陸路、薩摩へ帰国しました。生き残った者、わずか80余名といえども、小勢で敵陣を突破し、生きて故郷の地を踏むのですから、まさに奇跡といえます。

なぜ奇跡は起きたのでしょうか――。

関ヶ原で東西両軍が激突する少し前から話を振り返りましょう。

合戦の直前、伏見に駐留していた義弘は、薩摩にいる兄の義久らに軍勢を催促するものの、ことごとく断られてしまいます。当時、国元で叛乱が起き、上方に軍勢を急派する余裕がなかったからです。しかし、このときも”奇跡”が起きます…。
(つづく)


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関ヶ原の退き口① [島津義弘]

NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で関ヶ原の合戦をどう描くか期待していましたが、やはり3姉妹を主人公にした関係ためなのでしょう。大津城攻防戦や徳川秀忠の話に話題をさいていました。やや物足りなさを感じた方もおられたのではないでしょうか。

そこで本ブログにおいて、関ヶ原の合戦の名シーンにまつわる謎を皆さんと一緒に解き明かしていきたいと思います。

関ヶ原の合戦の謎のひとつに、「関ヶ原の退(の)き口」と後世にまで讃えられた退却戦がありました。

16万の大軍勢が会した関ヶ原で“奇跡”を起こした事蹟の主役は、わずか1500の小勢。その大将・島津義弘(号して維新)は前代未聞の「敵陣中央突破」を敢行します。

島津勢は、石田三成隊の右、小西行長隊の左に布陣。それまで優勢だった西軍が小早川秀秋の裏切りで大壊走をはじめると、大軍を擁する左右両隊の将兵がわれ先にと、畿内・西国方面へ通じる街道(北国脇往還)へと向かいます。

「後陣甚だ騒動す」

と『維新公関原御合戦記』に書かれています。

つまり、島津勢は逃げ遅れ、退路を味方の敗残兵にふさがれたのです。逃げ道は中山道方面か、伊勢街道方面しかありません。いずれも東軍の敵中を突破する必要があります。

そのとき義弘は「刀の鞘の蛭巻(金属製の装飾品)も捨てよ」(『同』)と全軍に命じます。

こうして義弘は全軍に軽装を命じ、こうして前代未聞の退却戦が幕を開けるのです…。
(つづく)

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