関ヶ原の退き口(最終回) [島津義弘]

島津勢の「敵陣中央突破」という奇跡の謎を解き明かすヒントとして、『維新公関原御合戦記』の次のくだりに注目しました。

「関東の軍兵、左右にわかれ、敗軍を追ふて伊吹山に赴く」

島津が正面の東軍方(敵陣)へ斬り込んだあとの描写です。つまり東軍は、伊吹山山麓の北国脇往還方面へ逃げた石田三成・小西行長勢を追うことに夢中で、正面から突撃してくる島津勢を半ば無視していることがわかります。

次いで島津勢は福島正則の軍勢に遭遇します。しかしそのときも、

「正則戦ひを挑まず、故に正則が屯(陣)の前路を横にすぎて本道に突出」(『同』)

おそらく正則は朝鮮でみせた義弘の勇猛さを惜しみ、道を開けたのでしょう。

井伊直政のように執拗に追撃する部隊はあったものの、こうして島津勢は南宮山の麓まで逃げのびることができました。

そこには、同じく“逃げ遅れ組”の長束正家(なつか・まさいえ)や土佐の長宗我部盛親が布陣していました。ところが彼らは、島津勢に伊勢街道への道を譲るばかりか、関ヶ原から比較的近い近江水口城主の正家に至っては、道案内の兵まで貸し与えています。

もちろん、島津兵の勇猛果敢さによるところは大きかったと思いますが、東西両軍から義弘の武勇を惜しまれたこと、そして、東軍諸隊が三成や行長らの首を得ることに執心したことが、奇跡をもたらした大きな要因だったのではないでしょうか。
(つづく)

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