関ヶ原の退き口③ [島津義弘]

伏見で本国薩摩へ軍勢催促した義弘は兄義久らに断られてしまいますが、そのあと“奇跡”が起こります。本国薩摩から続々と上方へ島津兵が終結するのです。

史料で確認できるだけでも約400名が薩摩・大隅から上方へはせ参じています。それをテーマにしたのが池宮彰一郎氏の小説『島津奔る』でした。

上方駐留の島津勢は1100程度でしたから、その4割近くの兵が本国からはせ参じたことになっています。いったいなぜなのでしょうか。

豊臣秀吉が朝鮮へ出兵したとき(文禄・慶長の役)の話です。島津勢が籠る泗川(しせん)の城に20万の明軍が攻め寄せます。ところが、『征韓録』には、義弘は、その雲霞のごとく大軍を蹴散らし、逆に敵の首3万8717を討ち取って明軍から「鬼の石曼子(しまんず)」といって恐れられたと書かれています。

島津の将兵はその義弘の武勇を慕っていたのです。

しかし、それでも伏見の島津勢は、1500にしかなりません。はじめ、義弘は東軍へ加わる予定でしたが、兄義久の愛娘(義弘の嫡男家久の正妻)らを大坂城で人質に取られている以上、西軍に与するしかありません。

「義弘、やむことをえず。ついに三成が催促に応ず」と『維新公関原御合戦記』にあります。

そして合戦の当日、逃げ遅れた島津勢は敵陣突破という奇跡を起こすのですが、それは、どのようにして可能となったのでしょう。

命を捨てた島津兵の勇猛果敢さはむろんのことですが、『維新公関原御合戦記』の次のくだりに注目しました…。
(つづく)

[緊急のお知らせ]
ご一読ありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/

10月から最新記事は引っ越し先のブログのみに掲載させていただきます。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。