関ヶ原の退き口② [島津義弘]

島津の兵が退路を断たれ、義弘は全軍に前代未聞の敵陣中央突破による退却を命じました。

敵陣へ向けて悲壮な覚悟の島津勢は突入を敢行します。その島津兵は雑兵のみならず、諸士全員が鉄砲を使います。しかし、鉄砲の引き金は1度引けても、2度引けない大混戦。義弘もさすがに死を覚悟しました。

そのとき、甥の豊久が「国家(薩摩)の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」(『維新公関原御合戦記』)といい、殿軍(しんがり)を引き受け、重臣の長寿院盛淳(ちょうじゅいん・せいじゅん)が義弘の影武者となって、2人とも壮烈な戦死を遂げます。

こうして東軍の追撃を振り払い、義弘は伊勢街道を南下。鈴鹿山中の駒野峠に差しかかったのが、9月15日、合戦当夜の10時ごろ。近江の信楽へ出て大和国経由で17日の夜、摂津の平野(ひらの)に到着します。

このとき義弘に従う将兵の数は、わずか80余名になっていました。

その後、堺から船に乗り、兵庫沖で大坂城から脱出してきた女たちの船と合流して日向に上陸。あとは陸路、薩摩へ帰国しました。生き残った者、わずか80余名といえども、小勢で敵陣を突破し、生きて故郷の地を踏むのですから、まさに奇跡といえます。

なぜ奇跡は起きたのでしょうか――。

関ヶ原で東西両軍が激突する少し前から話を振り返りましょう。

合戦の直前、伏見に駐留していた義弘は、薩摩にいる兄の義久らに軍勢を催促するものの、ことごとく断られてしまいます。当時、国元で叛乱が起き、上方に軍勢を急派する余裕がなかったからです。しかし、このときも”奇跡”が起きます…。
(つづく)


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